最近見た映画・メモ粉川哲夫Tetsuo Kogawa

気をとりなおして再開しました。これまで出さなかったものを掲載します。

[Mon August 04 07:16:57 JST 1999]
●ホーホケキョ となりの山田くん(高畑勲/1999)
NHKや朝日新聞で「庶民」を描かれるとひっかかるときの感情がよみがえる。うん、いいけど、ちょっとちがうんじゃない、という感じなのだ。
そういう「とほほ」感覚を制度化しないでほしいという気もする。そんなもの、どこにもないからである。むしろ、古典落語の味かな?
昨日もカレーだったから、今夜の献立は変えないと、と悩んでいるまつ子が、ぽんと手を打って、「そうや、思い切って、カレーや」というおかしさに典型的にあらわれているように、所詮、漫才か落語の世界にすぎない。
猥雑さの全くない世界。
サブカルが体制内化される例の典型。いしいひさいちの「とほほ」感というか、なさけなさ、三枚目の雰囲気は、番犬のポチの表情ぐらいにしか残っていない。
画像はきれいである。区切りに俳句を置くのもシャレている。矢野顕子の音楽・ソングもいい。しかし、こういうコギレイな場に置かれた「庶民」というのは、どういうものなのか? 所詮、『となりのやまだ君』は、朝日という場で許容されているマンガである。
ケ、セラセラ、なるようになる・・・未来は見えない、なるようになる
12チャンネルがウィークデイの午前6時からニューヨークからのライブで放映している「モーニング・サテライト」で、少しまえから「ケ、セラセラ」が流されていた。いま、この歌は時代の気分にマッチする。矢野顕子は、そういう感覚をうまくつかんで、使っている。(99-07-07、東劇・松竹試写室)

●ゴールデンボーイ(Apt Pupil/1997/Bryan Singer)(ブライアン・シンガー) ◇社内試写を見落とし、松竹から券をもらって一般上映で見る。がらんとした場内。スクリーンは大きく、試写室よりゆったり見れる。
◎相当いい。イアン・マッケランがすこしぼさっとした感じで不適合なのだが、ブラッド・レンフロはなかなかいい感じ(『ブラジルから来た少年』や『スナックバー・ブダペスト』に出てくるファシスト的な若者に通じる冷たさを鋭く表現している。
◆時は、1984年。学校でホロコーストの話を聞いた学生(ブラッド・レンフロ)が、図書館でホロコーストについて調べ、イスラエルの機関が出しているホローコースト実行者の手配資料を入手する。解説では「アウシュヴィッツ」となっているが、マッケランがいたのは、パティンの収容所である。
途中まで、「人は一人では生きられない」というヒューマン・ドラマ風の展開をするが、それは、すぐに崩壊する。(99-06-29、新宿東急)

●バッファロー’66(Buffalo '66/1998/Vincent Gallo)(ヴィセント・ギャロ) ◇社内試写のスケジュールが合わず、一般試写で見せてもらう。女性客が大半の試写会。
◎こいつは傑作。ハリウッド映画のパターンに飽きた人も、パターンを愛する者も、必見。ギャロの個性満開。
◆カナダからの帰り、初めて立ち寄ったバッファローを思い出させる寒々した人気のないバッファローの景色。そこは、刑務所で、ギャロが出所するところからはじまる。すべてを投げうったような風貌。薄着のまま外のベンチで所在なく眠りこけ、起き出して、出てきたあの刑務所に行く。「ここは、discharged gate[釈放の門]だから、誰も入れない」といわれる。Eagle Streetの表示。
☆ここのところで、カフカの短編「掟の門」を思い出す。「田舎から出てきた男」があの門に入れなかったのは、それが釈放の門だったからかもしれない。
◆刑務所の門に入ろうとしたのは、トイレに行きたいからで、それを断られて、バスに乗る。股間を押さえながら、バス駅でトイレに駆け込もうとしたら、そこが掃除中。近所のレストランに行けば、閉まっている。やっと見つけたダンススタジオでトイレに行く。隣で小便をしているデブのことが気になって、「見たな」と因縁をつけ、「ちきしょう、出なくなっちまった」。
◆両親に電話をかけようとしたがコインがなく、通りがかった女に借りる。「ありがとうぐらい言ったら」。電話では、外国に行っていたんで連絡できなかったと大層なことを言い、その女が盗み聞きして、けげんな顔。
◆なんと、ギャロは、その女性を押さえつけ、「おれの言う通りにしろ」と外へ連れだす。その命令の仕方が強引で、微に入り、細に入っている。(99-06-18、東邦生命ホール、7月3日より公開)


●あの、夏の日(大林宣彦/1999) ◇背中を4回ほど突かれ、ゆさぶられました、はい。
◎う~ん、大林さん、ここまでやるか。『時をかける少女』のようなスタイルではもうできない、『SADA』でもない――じゃあ、これでどうだ、といった居直りが感じられる。こうなると批評のレベルを越える。しかし、これを小林桂樹の「最後の作」にはしてほしくないな。
◆タイトルバックからして「個人ムービー」風――でも、いまさらアザトイ感じ。
◆独特の映画――ついていけない部分もある:小林と由太、小林/菅井きん/宮崎あおが空を飛んでいくシーン(幸い、画面合成は違和感がない)
◆大林のエコロジー趣味は見え見え――海を越えたところの島に行くと、そこには、清水が流れ、魚や昆虫がいる
◆菜の花(?)の咲く原で少年時代の大井賢司郎(久光邦彦)と宮崎おおいが裸で向きあっているシーン
ホラタコの多吉(小磯勝弥)の存在がブチこわし。演技もオーバー
こいつが海で大タコと闘う話を映像化したシーンもたまらない(マンガのタコを使う) ◆最初のシーンで、嶋田久作が、ビールを飲みながら、魚(?)を口に入れるやり方
は、オランダでにしんを食べるやりかたに似ている(99-06-17、メディアボックス)

●お受験(滝田洋次郎/1999)7月3日
◎滝田の日本批判的センスは1年おくれている。昔はそうではなかったのに。『コミック雑誌なんかいらない』はいまでもその批判が有効だ。
実業団のマラソンの仲間が、グループでしゃべっているシーンがサエないのは、集団のしゃべりを撮るやり方が定番だからだ。いまは、集団性そのものが変わってしまったので、こういうやり方ではダメなのだ。
滝田のシニカルな味がサエない。
田中裕子が、外で働くようになって、ある日、したたか飲んで帰ってくる。そのままソファーに倒れ込んだところをカメラが脚を映す。このあたり、月並みなのだが、ポルノ映画で鍛えた滝田のうまさみたいのが、ちらりと出る。しかし、その次のシーンで、二人がベットに裸で入っているので、前のシーンが月並みになってしまった。十分エロティックだったのだから、それで止めておけばよかったものを。
矢沢栄吉が、湘南マラソンの途中で、「おれのコースはおれが決める」とばかり、一度は放棄したはずの娘の受験面接のために、鎌倉の坂また坂を(電車の線路やトンネルまで――すぐに警察がくるでぇ?!)抜けて、学校までたどりつくくだりは、ばかげている。こういうのがダメだというところから出発した話じゃないの?
リストラによる失業、女性の「自立」、子供の受験などのテーマはいいが、いまやるのならもっと突っ込まないと全然映画の意味がない。テレビのニュース番組だって、もっと突っ込んだアプローチをしているぞ。(99-06-16、東劇・松竹試写室)


●STAR WARS エピソード1(STAR WARS Episode 1/1999/George Lucas)(ジョージ・ルーカス)
◇環境:午前10時という、わたしには存在しない世界に属する時間での試写。今回、FOXは、第1回目のマスコミ試写会からわたしをはずした。こういうことはめずらしい。タレントとか「メジャー」なメディアだけを相手にするというのが、今回の宣伝戦略なのだろうが、あんまり強気なことをやっていると、当たらないかもよ。
うしろで、映画が始まったらセキがとまれなくなった男がいた。音が大きいときはわkらないが、しょちゅうセキのアクセントの入る音を聞かせれることになった。こういう人は、退場すべきではないか?
◎一言:こういう作品がヒット(ポピュラリティの「標準」になる)するかぎり、いまのアメリカがユーゴー爆撃を平気ですることは避けられないだろう。 ◆メモ:試写室の狭いスクリーンのせいか、映画の「予告偏」のような雰囲気が最初続いた。意外に画面がわびしいのだ。それぞれのキャラクターが、前作と関連しあっているはずだが、たとえば(テレビの走査線付のイメージが登場し、すぐ消えるキャラクター)シスの暗黒卿(Dark Load of the Sith)(?)が出てくると、なんか古いという感じがしてしまう。それにしても、このキャラクターの声は、なぜ走査線に合わせて、ゆがみ、ノイズまじりなんだろう?
仕組んでいるわけだが、アナキン(ジェイク・ロイド)は、ちらりと出てきたときから、光っている。
スター・ウォーズは、血族信仰と「選ばれた者」への崇拝を地盤にしている。
明らかにサムライ・ムービーからヒントを得た弟子/師匠、上下関係の崇拝。衣装も和服のまねをしている。
アナキンの出るレース・シーンは、よくできているが、それが、映像的にはややチープなのは、わざとゲームマシーンの映像に似せているためだろうか?
ダークサイドは、敵なのだが、この映画自体がある種「ダークサイド」カルチャーの感覚だ。
いかにもイタリア、アフリカ、アラブといった場所の雰囲気をもった映像(砂漠をラクダに似た「動物」が荷を引いていたり)が出てくるが、最後のクレジットを見たら、実際にロケしているのだった。実写映像を変形しているらしい。久しぶりに協力企業の名にSGIがあった。
この映画の古さは、マシーン・テクノロジーの感覚で作られていること。
動かなくなった車が、線のショートで動くようになる――もう、こういうの、マシーン・テクノロジーのエピソードとしても古い古い。(99-06-15、FOX)


●交渉人(The Negotiator/1998/F. Gary Gray)F・ゲイリー・グレイ ◆試写室はがんとしていた。30分まえに行ったからというようより、今日の試写はあまり情報を流さずに行なった追加試写だからだ。しばらくして、うしろで思い声が聞こえた。筑紫哲也だった。ふと思ったが、今日の試写は、彼のために設けたのかもしれない。映画会社は、そういうことをよくやる。
◇「ネゴシエイター」(交渉人)という仕事のプロが本当にいるのかどうかわからないが、着眼は見事。警察ドラマが全然違った新しさを持つ。
それにしても、人質を取ったり、その頭を赤外線銃で狙撃したり、といった非情さは、いまの映画ではあたりまえで、その表現はますます「リアル」になっていくわけだが、こういう映像とともに、われわれの感覚も、繊細さをなくしていくのではないか? △四方田犬彦は、誰かとの対談で、「われわれ」という表現を絶対に使わないと言っているが、「われわれ」って、そんなに親密さを強制するところはないんだけどね。自分と似たことを考えたり、やっている仲間を「われわれ」とよぶことはできるし、いっしょになにかをやった相手と自分を含めて「われわれ」と言えるのではないか? 四方田にかぎらず、人は、そんなに個性的ではないよ。
◇出だしは、ダニー(サミエル・L・ジャクソン)の仕事ぶりを紹介するシークエンス。モノクロでぱっぱっと出す。
この映画の舞台は、またシカゴ。
J・T・ウォルシュが出てくると、「ああ、こいつがワルだな」と思えてしまうのは、わたしだけではない。しかし、この俳優は好きだ。「ブレーキ・ダウン」(97)を見たのは、カナダでだったか? この役者の急死は残念。
心理ドラマとしては、秀逸。おもしろい。
内務捜査局の内部にワルがいて、なかなかその黒幕がわからない仕掛けは、かなり成功している。
メディアは、この映画では、非常に抑えた形でしか出てこない。
コンピュータにデータを入れていたのが決め手になるが、盗聴した音声ファイルをすべてコンピュータのなかに残しておくほどドジをやるワルはいるのだろうか?
アドホックなチームでも、誰がボスであるかを決めさせるプロセスが面白い。それが必ずしも守られるわけでもないということをも見せているところが、さらに面白い。
人質を取っている犯人との「交渉」には、決して「ノー」を言うなと原則は、けっこう使えるのでは。それで思い出したが、日本が「イエスマン」だというのは、日本人が、みな「ネゴシエーター」だからではないのか? 井深/石原の「ノーといえる日本」という発想は単純すぎる。
ケビン・スペイシーをなかなか出さず、急に登場させるやりかた。スペイsーは、交渉人としての腕は抜群だが、妻や子供は説得できないというシーンからはじまる。この個所は、バカみたい。スペーシーは、スウィートな感じなので、こういうシーンは、雰囲気をゆるませてしまう。(99-06-08、ワーナー)


●アドレナリン・ドライブ
◎起こりそうもないこと、うますぎることを積み重ねることに躊躇をしない技法。 車の窓からのウォークスルー的な映像でスタート。音楽は軽快。
せりふは下手だが、カンにさわる言い方をするスーパーの店主。耐えている運転席の青年。
やくざの事務所があるマンションでガス爆発があったのに、救急車が一台。しかも、その間に石田ひかりしか現場に来ない。瀕死のやくざ組長が救急車に収容されるが、いつの間にか事務所になったアルミのケース(なかに現金が詰まっている)がいっしょに持ち込まれている。救急車が川に落ちても、人は来ず、パトカーが来る。アルミケースをロッカーに隠した石田ひかり。やがて、そのなかから床に血がしたたり落ちるが、その量が異常。なんでそんな血が出るのか? 逃亡するために潜り込んだ幌つきの車で大騒ぎしても運転手は気づかないのはなぜ?
◆石田ひかるは、安藤政信と逃亡して宿泊したホテルのスイートルームと小躍りするが、その動きからがいい。病院で血に滑って転ぶときも、その転びぷりがよかった。(99-05-25、シネカノン)


●マイ・ネーム・イズ・ジョー
ジョーを演じるピーター・ミラーが、役者らしくないのがいい。
37才だが50才ぐらいに見える。自分に自信のない男。
ある種の恋愛映画だが、社会の絶望の度合いが強いので、その方はかすんでくる。 同窓会に行って違和感を感じている男。
引き込む映像。
終わり方はなんかあっけないが、これしか終わり様がないという気もする。それほど、救いのない世界でもある。(99-05-21、メディアボックス)
好きな映画ではある。


●ブルワース(Bulworth/1998/Warren Beatty)(ウォーレン・ビーティ)6/12公開
◎ストラーロの映像は少しがっかりだが、アクチュアルな映画。黒人スラムのシーンが生きている。アミリ・バラカが道化回しの役で出ている。
基本的にアフリカン・アメリカンへの肩入れが感じられる。
アミリ・バラカは言う、「ゴーストではなく、スピリットになれ」と。わたしは、ここで、アルバート・アイラーが、『ゴースト』から出発して『スピリチュアル・ユニティー』に至ったのを思い出した。
最初のシーン:(時は、1996年3月)テレビを見ながら、テーブルに向かい、涙を流しているブルワース(選挙戦の先行きが絶望的なことが直接の理由だが、すべての現状への彼の絶望的な胸の内が表現される)。
黒人には全面的な支持の姿勢をし、ユダヤ人には、かなりきつい:映画界の支援者のパーティへ、ケンタッキー・フライド・チキンのボックスを持ち込み(チキンは、象徴的に黒人の好物とされる)、ユダヤ人批判をする。
黒人のクラブに連れていかれて、ラップに染まり、DJまでやってしまうノリはドラッグ〈ノリ〉。
ハル・ベリー演じる黒人(少し肌が白い――母親は白人だという暗示がある「お母さんの失敗をくり返すな」と祖父が言う)(実は、ブルワースがマフィアに依頼した自己暗殺の役を引き受けていることが次第にわかる)は、両親の影響で、60年代の黒人闘争の精神を教えられている。彼女は、言う:黒人の重要なリーダーはみな殺された・・・生産工場が運動の指導者を生むのだが、生産工場が第3世界に移され、そのチャンスがはずされた・・・
メディアはもとより、日常会話などの偽善(たとえば、"fine")が暴かれるシーンがいたるところにある。ジャック・ウォーデンと医者だっだかがばったり会って、「どう?」と言い、"fine"を返す。そのくり返し。(99-05-19、FOX)


●スカートの翼をひろげて(The Lnad Girls/David Leland/1998)(デイヴィッド・リーランド)7月上旬公開
◎景色よし、役者よし、映像よし――ただし、結末が月並みなので、全体が「よくある話」になってしまった。
線路に耳を当てている老人(これと同じことを終わりの方で息子がやる)。やがて2両連結の客車のついた蒸気機関車が着く。3人の若い女性たち。老人は、彼女らをむかえに来たのだった。それにしても、愛想がわるい男。
*音があまりよくない。中央の手前に音が集中している。
女性がたちが車に乗せられてたどり着いたところは、農家。牛がおり、乳をしぼる。牛の大きな乳房とペニスとのアナロジーを感じる女性たち。
爆撃で空が真っ赤になっているサウスハンプトンが遠くに見える場所という設定。
◆この映画を見ていて、ふと、映画にはにおいがないのだと思う。そうさせたのは、この映画がかなり物の嵩・物性のようなものをなまなましく描いているからだろう。牛小屋のシーンとか、緑の大地が耕耘機で耕され、新しい土がむき出しになるとき、そこから土のにおいがしないのが不思議に思われるのである。
ステラをスティーブン・マッキントッシュがオートバイに乗せて、走るシーンは、いかにも田舎道を突っ走っているという感じがする。
父親は1918年まで兵役に服していた。戦争はうんざりだと思っている。国家が地域に介入してくるのも嫌っている。だから、農地を増やすために、牧草地を開墾せよという国の命令に抵抗する。
徴兵のために健康診断を受けたジョーが、心臓に異常音があるというので失格する――これを喜んでしまうという描き方はしない。けっこうこの映画は保守的。父親が抵抗していた開墾をやってしまうのが若い女たちなのだ。
それにしても、この映画、女たちがつねに男に飢えているという設定で物語を進めているところがないでもない。邦題は、そういうところから生まれた。(99-05-18、ギャガ)


●菊次郎の夏(北野武/1999)6月5日公開
[ヘラルド試写室は鬼門? 開演少しまえに「高みの見物だぁ」とか言いながら入ってきた野球帽のオヤジ――それは、立川談志。まるで自分のうちみたいな感じ。例によって途中(浅草のシーンが終わったら)出ていった。隣でなくてよかった。が、そのころから、となりのオジサンがなにかガサゴソガサゴソ言わせはじめた。なんだ!と思って見ると、折りたたみ傘のひだを一枚一枚直しているのだった。何で今?]
少年正男(関口雄介)が主人公のように見えるが、この映画は、「正男の夏」ではなくて、「菊次郎の夏」であるところがミソ。これは、菊次郎の夏の夢なのだ。
誰にも、少年のときの思い出と、もう一度少年にもどってみたいという願望がある。そういう思いにうったえようとするのがこの作品のねらいだ。
正男がサッカーのボールを持ってグランドにいるのを俯瞰で撮っているシーンは、いかにも孤独でございという感じで月並みだが、一体に、臭みのない映像。
浅草や競輪場のシーンの作りはうまい。ビートタケシは、変に「強い」役よりも、こういう半端なちんぴら風のキャラクターを演じた方がいい。
音のとりかたも繊細。
正男役の関口が最初に出て来るとき走っているが、走り方にペーソスのある役者。
浅草までのシーンは、非常にいいのだが、タクシーを無断で運転するシーンあたりからわざとらしさが目立ってくる。そして、タケシ軍団の井手らっきょが出てくるころには、テレビのりになったくる。
正男の夢に出てくる麿赤児の舞踏とか、少し後で天狗が勅使河原三郎風に踊る舞踏、もっと後で、ビートタケシが山伏や新撰組のかっこうで出て来るシーンは、なんか外国受けをねらっている感じ。
こういうサービスのなかでは、細川ふみえの彼氏役で出ている男(ザ・コンボイの黒須洋壬)が演るロボット的な大道芸。
いつまでたっても来ないバスの停留所で、ビートタケシは、自分だけ車で去る男に「百姓!!」とののしる。また、ヒッチハイクしようと、白杖をついた盲人のふりをするが、これは、マスメディアにおける「差別」過敏症に対する彼のチャレンジなのだろうう。しかし、どうかね、これは?
菊女郎が眠る正男を膝枕させながら、「この子もおれと同じだな」とつぶやくシーンがあるが、この映画は、菊次郎がつかの間子供になって遊ぶ映画である。だが、探しあてた母が、すでに再婚して別の家庭を作っていることを知ったあと、(特にグレート義太夫/井手らっきょ組との出会って、いっしょにキャンプするシーン)正男と菊次郎の遊びがエスカレートしていくこともあり、どう見ても、がっかりした正男を菊女郎がなぐさめようとしているという感じが強く出てしまう。そして、そんなにサービスしなくてもいいんじゃないの、という気になってしまうのだ。
まあ、車が停ってくれないので、道路に釘を立ててパンクさせようとするあたりは、菊次郎年令の男が、子供時代にやったことをいま子供といっしょにやって、ノスタルジックに楽しんでいるという感じはするが。(99-05-14、ヘラルド)


●催眠(落合正幸/1999)6月5日公開
まず、音の録りかたが荒いのが気になる。試写室の音響設備の問題かもしれないが、ステレオになることもあるから、やはりワンポイントで録音しているのだろう。観客への心理的効果をねらった(神経をさかなでするような)音もあるので、わざとのつもりかもしれないが、その効果は出ていない。音の粗雑な大きさだけが強調される。 台詞がみなうまくない。特に、監察医を演じる佐戸井けん太のうそぶいたようなしゃべり方は、レジオドラマや新劇の定型。
宇津井の家を訪れた稲垣が、ジンかウィスキーを出されて飲み、むせるシーンの平凡さ。
催眠術師の升 毅が菅野を脅したあと、「ウワッハハハ」と笑う笑い方は、ステレオタイプ的に「気味悪さ」を出そうとするドラマのなかにしかない。
催眠のかけ方があまりに型にはまりすぎていて、リアリティがない。こんなんでかけられの、と思ってしまう。稲垣吾郎のカウンセラーは、とてもプロには見えない。彼は、「催眠はとことん誤解されている」と言うが、この映画もそういう元凶の一つ。 菅野美穂が、多重人格で、「わたしは宇宙人・・・」というシーンは、ドラマのなかの演技としても、見て入られない。
この映画では、特に警察署内で、みんなまるで子供のようにあすぐに言い争う。 真相をようやく理解しはじめた宇津井健が、催眠の本を読みはじめるが、その本のタイトルに Das Wesen....というドイツ語が見られるが、開いているページは、えらく時代ものの感じ。こんなものを読んで役にたつのだろうか?
黒沢清以来、サイコものが日本では流行りになっている。宇津井健は、映画のなかで、「人は脈絡なく死ぬようになった」と語り、署長も、「みんあ死にたくなる世の中だ」と語る。
人がたくさんいるシーンで「外国人」が目立つ――国際化の時代を絵いしているわけ? いいのは、ほとんどみんな死んでしまう結末か。(99-05-14、東宝8F)


●25年目のキス(Never been Kissed/1999/Raja Gosnell)(ラジャ・ゴスネル)
このごろシカゴを舞台にした映画が多い。ニューヨークは、いま、つまらなく華麗になっているが、そのことと映画の舞台がニューヨークに移っていることとは関係があるはずだ。
最初、シカゴ風というのか、すごくテンポのはやいダジャレ的な会話が続き、そのまま高校生のガキ世界に突入するので、ツイテいけないなという感じになったが、全然そうではないのだった。けっこうおもしろい。その世界を全面肯定しているかのようにはじまりながら、そこへの批判もある。所詮は、すべてハリウッド「ノリ」の映画だが、とこととんハリウッドスタイルでやるのがいい。最後に教師が現われるところなんか、ほとんど「現実性」がないのだが、そこがおもしろい。
「白いジーンズは1983年以後はない」
「プロム」[(prom > promnade):高校で学年末に行なわれる舞踏パーティ]のシーンが実際よりも誇張されているとしても、こういうものがあるのは、日本と全くちがう環境。
リーリー・ソビエスキーは、メガネをかけたいじめられやすい高校生を演じているのだが、その芝居の質がちょっと別格という感じ。デキる役者だ。
いくつかの世界の相違:
・新聞社:ワンマン社長がいて、仕事ができないとどんどんクビにされる世界(それをユーモラスに)
・ハイスクール:イジメがあり、歴然と階層がわかれている;君臨する者とはじかれる者
・弟(デイビッド・アークェット)の野球世界
全部描き方が中途半端なのだが、そこがおもしろい。
ところで、高校というのは、ある程度歳をとってから行ったほうがいいのかも。
(99-05-12、FOX)


●鉄道員(ぽっぽや)(降旗康男/1999)
ノスタルジアの時代なのだろうか? この映画のテーマは、「センチメンタル・ジャーニー」(高倉の妻だった恵利チエミのヒットソング)。
モノクロとそれに薄く人着したような画面が美しい。最初モノクロで出て来る過去のD51機関車の映像が雪のなかを走り、カメラが機関車の釜を映すと、そこだけうっすりカラーになっている――『アラー・オブ・ハート』に似た技法。
リストラで組織から追い出される人間が増えているいまの時代には受けそうな雰囲気。 しかし、乙松(高倉)のように、鉄道のために家庭も私情も犠牲にしてきたという「がまん強い」態度をこの人物の個性(「横滑りがきかない」と乙松は言う)や特殊性に還元すべきではない。こういう人物が億といたし、いまもまだいるわけだが、これは、日本の組織がそういう個性や特殊性を要求してきたのであり、つくってきたのだと考えるべきだろう。家族や個人のレベルを欠いたシステム。
新しいタイプの「雪女」伝説。最初、カマトトぶって、いつも笑っている広末が気になったが、「雪女」ならしかたがないと思う。
広末の出て来るシーンは、一見、唐突な感じがするのだが、色を替えながらの回想シーンが何度も出たあとなので、「現実」のシーンのトーンで描かれているこのシーンが、実は幻想的なシーンであることがわかったも、それほど不自然か感じはしない。
「うちは、赤旗も日の丸もごめんだ」と、奈良岡朋子演じる食堂の女主人ムネは、d=炭坑労働者のけんかを仲裁しながら言う。
「462や751が戦争で負けた日本を立ち直らせると親父に言われてぽっぽやになった」と乙松は言う。
大竹しのぶは、うまいのだろうが、なんか『学校 III』とそっくり。「ついてない」女の「せつなさ」を演技させたらこの人をおいてないという感じになっているのは、どうか。
同僚の仙次(小林稔侍)と乙松との関係は、西欧的な観点からするとホモセクシャル的である。かつてカフカは、官僚制のなかに新たなエロティシズムとセクシャリティを洞察したが、日本の伝統的な組織のなかには、男と男とのあいだにホモセクシャルとは異なるが、実質的には同じセクシャリティを発見できる。彼らは、直接の情交はしないが、その関係は非常にセクシャルである。
酔っ払った仙次を世話する乙松が、畳にお仰向けに寝ている仙次の上にかぶさる形になったとき、彼は、昔、トンネルのなかでガスにやられた仙次を助けたときのことを思い出す――だが、そのシーンは、単なる回想を越えて、もっとエロティックだった。(99-05-11、大映7F試写室)


●豚の報い(崔洋一/1999)
最初の方で、「キャベツ買わんかね」という物売りの声が、イランの『りんご』の親父を思い出させる。
セックス、食べ物、下痢等々、崔監督好みの身体的な要素が強調されるが、ぞっとするようなリアリティはない。
正吉(小澤征悦)は、ある種のマレビトである。だから、彼は、誰とでも寝る女たちに囲まれながら、一度もセックスしない(しそうになるところはあるが)。
ある種の一夫多妻的な共同性の研究。一夫一婦制の家族を越える試み。父の墓を探す小吉だが、ここでは、父は、家父長的なタテの頂点にいる存在ではないようだ。映画でもえがかれている沖縄的な「おおらかさ」とは、そういう父を越えたヨコの関係の節目の存在から生まれる。
残念なことに、音のとりかたが悪い。ワンポイントで、疲れる。
同化も異化もできない映画。(99-04-27(メディアボックス)


●オープン・ユア・アイズ(Abre los ojos/Open Your Eyes/1997/Alejandro Amenabar)(アレハンドロ・アメナーバル)
基本的に役者がよくない。ユーモアが全くない。90分ぐらいすぎてからようやく面白くなるが、残りは30分たらず。
冒頭のシーンで、ささやくような女のヴォイスが聴こえる(これは、目覚ましの声であることがすぐわかる)が、なんか、この映画は、セラピー的に暗示にかけようとしている(そのくせうまくいかない)ようなところがある。
虚実の問題が、映像的レベルでよりも、心理的なレベルであつかわれている。映像のレベルで、これは、「現実」だ、「幻想」だと観客が判断するのではなく、ドラマのなかでそう判断しなければならないような構造がダメ。
延命技術の会社が出てきて、気をもたせ、時代が2145年だというような話になるが、ビルの外に拡がる景色は、そうは見ない(というより、そういう判断を観客が下せないようにあいまいな映像にしている)。こういうのは、韜晦である。もったいつけるなよ、と言いたい。本当に実力のある監督は、リアルな映像を使いながら、まてよ、これは「現実」なのか、という疑いを生み出せる。(99-04-27、メディアボックス)

●学校の怪談4(平山秀幸/1999)
「尋常小学校」の表札のある建物がモノクロで出て、そこで隠れんぼをする坊主刈りの少年とおかっぱ(昔の広告に出て来るようなカット)の少女。一人が(その時代に平均としては)やけに背が高いのが気になるが、時代は、大分昔であることがわかる。そういえば、昔は、学校の教員室も隠れんぼの隠れ場所になりえたなと思っていると、どこかで半鐘が鳴り、やがて海からものすごい高さで水が押し寄せてきて小学校を飲み込む。赤いタイトルが出る。このイントロのテンポは見事。ここから画面がカラーになる。
車で原田美枝子と2人の子供が東京からやってくる。
浜に打ち上げられたランドセルのなかから、人面の(平家蟹?)が出てくるシーン。
子供たちのせりふはへた。原田の娘・安西弥恵を演じる豊田眞唯の目つきがいい。
とうになくなった列車が現われるシーンは、幻想的というより、ノスタルジアをかきたてる。スリラー的な要素よりも、「なつかしさ」をかきたてるのは、平山秀幸の特性。
モノクロの世界にタイムスリップすると、昔の文具屋が現われる。「アテナインキ」
文具屋の親父(笑福亭松之助)は、すでに死んでいるのだが、子供たちの前に現われる。その呆然とした表情と語り口がいい。
ただ、全体としては、幻想的なシーンは、海だけにとどめるべきだった。
隠れんぼのメタファー→過去探し(99-04-27、東宝3F試写室)


●メッセージ・イン・ア・ボトル(Message in a Bottle/1999/Luis Mandoki)(ルイス・マンドーキ)
アメリカ映画では、離婚した親が子供を送り、別れた相手に子供を返しに行ったり、連れてきたりする(たとえば週末を元の母親のところで過ごすなど)シーンがくり返し描かれる。この映画の初めも、それによって、ロビン・ライト・ペンが演じる女性テリーサの周辺を紹介する。
個物の描き方が繊細。テーブルの上にあるものとか、登場人物が食べているケーキがブルーベリーのタルトであることがはっきりわかる撮り方。
テリーサが初めてギャレット(ケビン・コスナー)に食事に呼ばれてホテルから来るとき、裸足でワインと一本もって海岸の近くを歩いて来るシーン。
テリーサが、シカゴのひどい話をし、ここではどう、と尋ねたとき、ギャレットが、「ここも同じだ」と言い、eventuallyと付け加えるシーン。「最終的にここも同じになった」「遅ればせながら」という意味だが、うまい使い方。
「息子は、まだ死を受け入れられない」とギャレットの父(ポール・ニューマン)。最近のアメリカ映画は、「死を受け入れる」ということに関しては、以前よりも大分成熟した。この映画でも、終わりの方で、コスナーが、亡き妻の名(キャサリン)をつけた自作のヨットで外洋に出て、嵐で遭難しかけた家族を救うために海に飛び込んだとき、ああ、またコスナーはかっこいい役をやって終わるのかと一瞬思ったが、彼はあっさり海に飲まれてしまい、あとは、彼の死を耐え、受け入れ、なぐさめあうかのように見えるテリーサとニューマンが浜で抱擁するシーンが続く。
テリーサとギャレットとのディアローグに、ひょっとして恋人たちがこの映画をくり返し見ながら、二人でそのセリフをおおむがえしにするかもしれないような個所がある。もっとも、そういうことを想定して、たとえば『カサブランカ』なんかのシーンをまねているようなふしもある。
知り合いのAにそっくりのイリアーナ・ダグラス。
この映画でも、クリスチャニズムの軸がはっきり出ている。死んだ妻は、熱烈なクリスチャンに見える。最近のアメリカ映画は、その点で50年代に返ったかのよう。
キャサリンは、仕事場の友人のまえで泣くが、最近のアメリカ映画のなかに登場する女性は、ふたたび泣くようになってきた。(99-04-23、ワーナー)


●暗殺の瞬間(Sista Kontraktet/1998/Kjell Sundval)(シェル・スンズヴァル) [「音楽会は終わった」としたのは、グレン・グールドだが、映画館も終わるかもしれない。となりの老人がズボンの片足をまくりあげてボリボリかいている。]
力作ではあるが、作りが既存の暗殺ドラマ(たとえば『ジャッカルの日』)に似た場面やタッチを多用するので、現実をもとにした作品であるにもかかわらず、ドラマっぽくなってしまい、現実に対して作者がこめたであろうところの批判力が薄まっている。ただ「おもしろん」と見るだけなら、楽しめる作品である。 作中に、1985年4月7日以来の、オロフ・パルメ大統領の映像(主にテレビのニュース映像)が出てくるが、それが、あたかも俳優がやっているかのような印象を与えてしまうのは、サービス過剰のためだ。 ヨハネスブルク(殺し屋の背景)、ストックホルム、ロンドン、ニューヨーク・・・と現地ロケをしているが、かえってフィクションめいてくる。
それと、残念なのは、10/18のシーンで、集音マイクが数秒天井からのぞいてしまうところがあること。こういうのは、なぜ、撮り直しをしないのだろうか?
最後のシーンで、ヨハネスブルグに住んでいる殺し屋が、暗殺された夫(殺し屋の仕事を手伝ったが、口封じに消された)の妻が、メイドになりすまして、殺し屋を殺す。これは、いかにもリアリティがない。 殺しのプロを演じるミカエル・キッチンは、いい演技をしている。(99-04-08、東映2)


●カラー・オブ・ハート(Pleasantville/1998/Gary Ross)(ゲイリー・ロス)
[以下、メモの量が他より多いからといって、この映画を高く評価しているわけではない。『イメージフォーラム』に原稿を書くので、少し考えながらメモを取ったら、こうなっただけ]
ラジオかテレビのチャンネルを切り替える番組の音。やがて、テレビの画面の映像が出て、それがテレビとわかる。イントロ。
"What's the mother to do?" (母親だからね)という台詞が通用した時代。 「テレビが切れるって、友達を失ったような感じがするだろう?」とテレビ屋(90年代なのに、50年代の雰囲気をもったおやじ)が言う。
高校の味気ない授業とうらはらに、うちにかえって50年代を描いた(50年代の再放送? 画面はモノクロ)テレビドラマに熱中するデイヴィッド(トミー・マクガイヤー)。変なテレビの修理屋のオヤジからもらったリモコン装置で双子の妹ともども、50年4月の世界に入り込んでしまう。
妹は、「兄ちゃんがオタクやってた呪いよ」と言う。
50年代には、家族がいっしょに、朝飯はしっかりと食べた。パンケーキ、ベーコン、ハムのたっぷり載った皿。食後にはマシュマロケーキをたっぷり食べる
消防署は、木から降りられなくなった猫を下ろす作業しかやっていない。
高校のキャンパスには、星条旗がひらめいている。
地理の時間は、地球のことなどではなく、地元の通りについて勉強する。すべてがローカルなのだ。 バスケットボールの練習も、みな、明るい顔で、にこやかにやる。個人プレーではなく、協調的に行われる。
本はあるが、なかはみな白紙である。
人々は性欲を知れず、みなつつましい。
3人いっしょに行動し、すぐに笑いころげる女子高生がいる。
デイヴィッドがアルバイトをしているハンバーガー屋の主人ビル(ジェフ・ダニエルズ)は、毎日同じパターンで仕事をしており、パターンをくずすことがしにくい。パターンがくずれるのは、クリスマスのときだけである。仕事は同じことの反復である。
中年の女性たちは、みな専業主婦であり、集まればカード遊びをするくらい。そのとき、母親ベティ(ジョアン・アレン)の手にしているカードのスペードマークに色がついてしまう。彼女は、ハンバーガ屋のビルが好きだった。
彼女は、入浴しながらマスターベーションをする。すると、彼女の顔に色がついていく。夫(ウィリアム・H・メイシー)の客が来るのに顔を出さなければならない彼女は、あせる。デイヴィッドがやさしく、彼女の顔にグレーのクリームを塗ってやる。
やがて、彼女は決断し、家を出てビルのところへ行く。仕事から帰宅した夫は、"Haney, I'm home"と言うが、答えはない。すると、次の台詞は、"Where is my dinner?"なのだった。(この時代の男の論理)。
デイブ・ブルーベックのジャズとともにどんどん色がついていく。
「プレザンヴィルの外(outside)では、道路はまっすぐに延びている」と町民に話すデイヴィッド。
本にページが現われる。トムソーヤの冒険。
大きなダブルベッドは、それまで町民にとって、破廉恥なしろものだったが、それを買う者が出て来る。 働くことに疑問をもつ者。
デイヴィッドが図書館からもってきたThe World of Artsという本をビルに渡す。そこには、レンブラントからブラックなどの現代アートの写真がある。
みんな本を読みはじめる。それまで本など読まなかった妹も、本に熱中するようになる。
ダイナ・ワシントンのジャズ・ボーカルも使われている。
反動も次第に起きて来る。"Together"を叫び、 "Colors"の撃退に結集する人々(われこを"true citizons"だと)。戸口に"No Colors" という看板を出す家も出て来る。
それまで、なぜか、デイヴィッドには、色がつかなかった。しかし、反動的な集団に取り囲まれ、暴行を加えられそうになっていた母を助けると、その瞬間に色がつく。
"colors" たちも団結をしはじめる。
自分の店のガラスに恋人のヌードを描いたビル。そのために、店を襲撃される。しかし、それにひるまず、デイヴィッドとビルは、建物の壁にカラフルなグラフィティを描く。そこには、『ライ麦畑でつかまえて』の名も見える。
最後は、あっけなく、おさまる。妹も、勉強をする気になって、この世界に残る。
デイヴィッドのためにそうした仕事への疑問が起きてくる。
デイヴィッドは、90年代のくせで、エビアンを注文しようとしたり、How are you?と言われて、「クール」と答えてしまったりする。
妹のジェニファー(リース・ウィザースプーン)は、遊び大好きの奔放な若者で、そののりで、デートにさそわれると、すぎにカーセックスをしてします。すると、相手の舌に色がつき、車にの色がついてしまう。 [いまだに、車の走るシーンで、タイヤが逆回転したりする――フィルムの撮影速度との相対速度でそうなる――のをそのまま平気で撮るのをやめられないのか?](99-04-21、ギャガ)


●メイド・イン・ホンコン(Made in HongKong香港製造/1997/Sam Lee)(サム・リー)
自殺した少女の墓を探しあてた3人がそこでたわむれるシーンは、60年代のヌーヴェルヴァーグの典型的なシーンをまねている。
ケータイ、パッケージされたジャンクフード、だらっとした服装・・・日本の若者文化に通じるもの。 そういえば、ぼけ役で出ているロンは、セクシーな女性を見るとすぐ鼻血を出すが、これは、日本の「鼻血ブー」の影響か?
自殺した少女が残した血染めの手紙を、血だらけのまま机のなかに入れておく神経は、「日本人」のものではない。
学生のような集団で、みな同じような雰囲気で動いているオウム的な街のグループの不気味さ。
父親は、若い女をつくり、そのくせ、その女は幸せではなく、ファミリーはもとより、親密な関係そのものが不可能になっているという雰囲気がこの映画にはある。
最近、香港で10代のためのインディペンデントのヴィデオ運動をやっているVideo Powerのチョム・カイ・チェンと話をし、この作品のことが話題になった。彼は、「確かに青少年の自殺は少なくないが、日本でその話になるとかならずこの映画が例に出されるのには、まいった」と言っていた。「映画は映画だから」と。(99-03-29、徳間ホール)