最近見た映画・メモ粉川哲夫Tetsuo Kogawa


このスタイルに飽きました。別の方法を考えます。愛読してくれていた方には感謝。別のページで会いましょう。

[Wed May 19 07:16:57 JST 1999 ]

●カラオケ(佐野史郎/1998) 5月下旬公開
団塊の世代のノスタルジアと甘えで作られた退屈な作品。
いかにも記憶の底からよみがえる出来事を思わせるような民謡の歌声で始まり、シャッターの音で切断するイントロの月並みさ。
台詞が紋切り型で、アングラ芝居的なのは、竹内銃一郎の脚本のせい?
30分ぐらいすぎてから、台詞がなくなって、少しよくなるが、なんか、アンサンブルとしてうまくいっていない感じ。織本順吉のようなベテランですらも、台詞がうそっぽいのは、演出のせいだろう。
電話のかけ方(カラオケでの柴田理恵のも含めて)が、くり返して言うことによって、内容を観客に知らせるというどうしようもない技法をいまだに使っている。
子供が教室で合唱していると、その歌が、「菜の花畑・・・」なのだ。
ホモセクシャルの男に坪田翔太が言い寄られるシーンは、「唾をくれ」とか言われて、唾を手の平に垂らすような具体的な生な生ましいシーンがありながら、二人の関係は、その後、全然活かされない。
この作品で唯一生き生きしているのは、東京に出て行ったが離婚して戻ってくる女の役の黒田福美ぐらい。段田は適度にこなしているが、いつも同じ調子。
カラオケのシーンでは、歌われる歌とその傍らで起るドラマとを重ね合わせるというような工夫をするが、これは、舞台のやり方。
いま、カラオケ文化をささえているのは、団塊の世代なのではないか? 街頭がカラオケボックスに極小化された。もう機動隊のいる街頭はたくさんと言わんばかりに、密室に逃げ込んだままなのだ。
寺山修司とかカルメンマキとか、もういいよ。彼や彼女のなかに潜在する「父」(「遥かなるお父さん・・」)や「母」つまりは天皇制へのあこがれを暴くべし。(99-04-14)[Sat May 8 03:11:18 JST 1999 ]

●ブレイド(Blade/1998/Stephen Norrington)(ツティーブン・ノリトン)
クラブ音楽ノリの吸血鬼話。基本的に吸血鬼の話は、差別的であり、汎キリスト教的である。しかし、この作品は、吸血鬼のなかに、純粋種と後天種とをもうけることによって、通常の吸血鬼話に一線を画している。
1967年から現代に飛ぶ。タイトルバックのサウンドがいい。
日本的なサウンド、ちゃんとした発音の日本語、そして最後に「こんな技を知っているのはおまえだけだ」という日本語のせりふ。この日本への関心はなぜ?
ウェズリー・スナイプスが剣(日本刀と西欧的な剣との合成品――それもサイバーテクノロジーも付加)で吸血鬼を切ると、CG効果で粉々にくだけるのは、映像技術的には古いが、そのダサい感じが非常に効果的に使われている。
ニンニクを注入されると、体がむくみ、膨れ上がって爆発してしまう映像も、『ビデオドローム』的で、決して新しくはないが、ここで使うと非常に面白さがある。
リズムとタイミングがいい。
びっしり客のいるクラブで、DJが音楽をミックスし、場内に雰囲気が盛り上がったところで、天井から血のシャワーが出て来るあたり、カルト映画的な心地よさがある。
セックスシーンはないが、そのかわり、血を機械で吸い取られてしまったブレイドに、カレンが自分の首を吸わせるシーンは、セックス異常にエロティックである。(99-04-05)[Sat May 8 03:10:05 JST 1999 ]

●ライフ・イズ・ビューティフル(La Vita E Bella/1998/Roberto Benigni)(ロベルト・ベニーニ)
面白いのだが、しゃべりどうしのロベルト・ベニーニに辟易。
話は、1937年のイタリアから始まる。
この映画のベリーニには、一般に、「チャプリン的な要素もある」と言われる。ブレーキのきかなくなった車で、国王のパレードを待つ人たちの沿道に突入し、「どけどけ」というあいさつが、ファシストの身ぶりを思わせるといった政治風刺がある。しかし、その風刺はチャプリンほど鋭くはない。
家の中に入っていき、すぐに子供が出てきて、時代の推移を暗示させるシーンのさりげない転換がなかなかよかった。
基本的にはナチズムを風刺した寓話的なドラマで、物語の一つひとつが現実的には無理なのだが、どんなに困難な状況のなかでも、その状況をユーモラスに自分化し、方向を逆転させる方法があるのだということを教える。
ニコレッタ・ブラスキがいい。(99-04-05)[Sat May 8 03:09:15 JST 1999 ]

●タンゴTango/1998/Carlos Saura)(カルロス・サウラ)
☆椅子の背を蹴られ、いらつく。場内が明るくなって後ろを見たら、浅利慶太。その間、横では、いびき。そのおばさんは、映画が半分以上進んでから入ってきて、居眠り。何しに来たの? この人、どこかで見たことがある。たしか、某劇場の支配人ではなかったか。
ダンスや格闘のシーンが出る映画では、役者の力量がモロに問われる。最初のシーンから登場するセシリア・ナロバは、その表情、身ぶりをちょっとさらすだけで、周囲を圧倒する力をもっている。その点で、わたしには、ミア・マエストロは、この映画の重要なヒロインであるにもかかわらず、そうしたアウラが弱いように思えた。
タンゴを踊る男女は、能面のように表情を止める。
抑圧時代のイメージをタンゴで表現した場面。タンゴのある種機械的なリズムと動きがぴったり合う。それは、タンゴ文化の持つもう一つの面かもしれない。
フェリーニ的なナルシシズム。
映画のストーリーそのものを(舞台をつくるという設定で)構築していくプロセスが映画になっていて、最後に、『スティング』的なシャレも入るというスタイル。
マフィアの用人棒をやった(マーチン・ランドウに似た)役者の殺気だった目がいい。
映像的に、「舞台」の最初のシーンとして構成される――移民者たちが、海岸の坂を登ってくるシーン。背後に日が登る美しいシーン。
1932ー33年頃のモノクロ映画『タンゴ』のシーン。(99-03-29)[Sat May 8 03:08:28 JST 1999 ]

●ペイバック(Payback/1999/Brian Helgeland)(ブライアン・ヘルゲランド)
[なぜヘラルドの試写室では、イスの背を蹴られることが多いのだろうか? ほかの人はこういう災難にあっていないのだどうか? ゆとりのあるスペースとイスのよさが裏目にでたとのこのこと。スペースに余裕がるので足を組む。すると、組かえるときに、前のイスの背にかける。ときには、背に靴を当てたままにする。しかし、それが、前の人間にどんな物理的不快感をあたえるかを、映画のプロがわからないとは、信じられない。]
ギブソンのナレーションで進行する。
撃たれたギブソン(ポーター)の背中の弾をあやしげな医者が取り出すシーンからはじまるのだが、この映画には、マゾヒズム的な映像が多い。ヴァル(グレック・ヘンリー)は、金を奪うために襲った中国人マフィアの一人を運転台のハンドルに執拗にうちつける。彼は、マゾで、その手のプロの売春婦を呼び、殴らせる。ポータの妻は、ヘロインの注射器を腕に刺したまま死んでいる。売人の鼻のリングを引きちぎる。その脇でポータは、一晩をすごす。ポーターが拷問されるシーンも、3度にわたって足の指をハンマーで打たれる。
こうしたシーンが、まったくないセックス・シーンの代わりになっているフシがある。
タバコは、リチャード・スタークの原作のパーカー(この映画ではポーター)のトレードマークのようだが、ここでは、まるでタバコ会社が一枚かんでいる(そうかもしれない)かのように、ギブソンをはじめとして、みなタバコをよく吸う。タバコがドラマの機能の一つにもなっている。
ギブソンの映画にしては、どこか人生に失望( "No life, no hope") しているような雰囲気がただよう。これは、わるくない。シカゴをつかったのもよかった。(99-04-30)[Sat May 8 03:07:18 JST 1999 ]

●RONIN(Ronin/1998/John Frankenheimer)(ジョン・フランケンハイマー)
西欧人が見たステレオタイプ的な「武士道」をバネにしているようなところがある。その典型がデニーロの役。登場する人物も、それぞれ性格分けをしている。最初頭のいい「紳士」の雰囲気で登場するグレゴール(ステラン・スカルスゲールド)は、次第にその非情な性格を露呈させる。隠れ家に初めて集まったとき、デニーロが、わざとコーヒーカップをテーブルから落とし、グレゴールが、それを反射的につまむシーンがある。これによって彼が相当な訓練をつんだプロであることが露呈するのだが、表現としては月並み。
ツワモノがすべて揃った最初の段階で、さりげなくサンドウィッチなんかを食べるシーンがにくい。こういうのは、アメリカ映画の特技。
この映画では、みんなよくタバコを吸うが、ジャン・レノは、「やとう側の人間はみなタバコなどやらない」。
デニーロの「武士」ぶりを示すシーンの一つに、銃で弾を負った彼が、自分で手術をするところがある。このシーンの一部は、JALの畿内で上映されたヴァージョンではカットされていたように思う。
このあと、ミッシェル。ロンダールが語る四七士の話は、まちがっている。彼らは、別の主君に従うのをあきらめたがゆえに自害したのではなくて、事件の性格を配慮した幕府の命令で打ち首ではなく、切腹をすることになったのである。
カーチェイスのシーンがかなり重要な位置を占めている。それは、なかなかうまい。ただ、毎度のことながら、細い道に突っ込んでくる車を避けて飛び去る人とか、無残に解体されてしまう屋台とか、こういうのって、何の意味があるのか?(99-04-28)[Sat May 8 03:06:11 JST 1999 ]

●39(森田芳光/1999) 5月1日公開
[一般披露だったので、記者会見と舞台挨拶があった。「ガラガラだよ」という関係者の緊張した声。花束を渡すことになっていた女性の一人がどこかへ行ってしまったらしく、代役を探している関係者。]
映像と音がスピーディに切り替わるタッチが最初新鮮に感じられるが、次第に退屈(とくに裁判のシーン)になってくる。
鈴木京香が演じる精神鑑定士の名は「小川香深」――「カフカ」なのだった。
暗示的なしゃべりかた――これは、終始つづく。岸辺一徳たちが堤真一を尋問するとき、指をかぞえながらやっている。
堤が、刑法39条を逆手にとって、「後退人格」を演じ、たくみに罪をのがれようとし、それを鈴木が見抜くというのが基本の筋だが、終始、岸辺は、すべてを知り抜いているような意味あり気な目つきで登場する――ことへんがもったいぶった演出。
全員の台詞まわしが、わざとらしいのは、意図的か?
頭の悪い黒沢清という感じの作品。
[映画が終わって出た街の空気がやけにすがすがしかった。エレベータのなかで、「(舞台挨拶のとき司会者が)後半ですごいどんでん返しがあるって言ってたけど、なんにもかかったじゃない」という声。](99-04-22)[Sat May 8 03:05:12 JST 1999 ]

●ラウンダーズ(Rounders/1998/John Dahl)(ジョーン・ダール)5月上旬公開
マット・デイモンの感じは、『グッド・ウィル・ハンティング』によく似ている(うつむきかげんに歩く歩き方も)が、ジョン・マルコヴィッチ、ジョン・タトゥーロ、マーティン・ランドー、ファムケ・ジャンセン、そしてエドワード・ノートンと、みな一癖ある役者をそろえている。
全体は、語りのスタイル。
が、この映画には、憎み合うというシーンがないし、人も死なない――これは、最近のアメリカ映画としては不思議なくらい。そういえば、セックスシーンもない。
マイクのギャンブルの才能は、狂気をはらんでいない。むしろ、彼は、文化人類学的な観察眼によって、相手のカードを見抜く。マルコヴィッチが、ビスケット・サンドを食べるパターン(二枚をはずし、独特の仕草をする)から、彼がどのようなカードを握っているかを直観する。
最初、「こいつがどうしてムショにはいったんだろう」と思わせるような青年として登場するが、次第にそのどうしようもなさがはっきりしてくる友人ワーム(ノートン)を演じるエドワード・ノートンの演技は見事。ワームは、売春婦を"relaxation therapist"と呼ぶ。
ランドー演じるユダヤ系老教師は、最後の賭けをするデイモンに1万ドルを貸す。それは、彼が、デイモンのなかに自分の若い日々(ラビになるのをやめて、自分の思う道に進んだ)を見たからだった。見せる父親的な愛。才能ある者が年長者の支持を受けるのを見るのは、悪くない。
networkを「コネ」と訳していた(岡田壮平)――なかなかいい
(99-04-13)[Sat May 8 03:03:46 JST 1999 ]

●レッド・バイオリン(The Red Violin/1998/Francois Girard) (フランソワ・ジラール)5月GW公開
物語の歴史的な奥行きと幅、映像の確実さは、十分なリサーチと周到な撮影の成果。
話は、中世・近代・現代、そしてヨーロッパとアジアにまたがる。一台のバイオリンをめぐる人間ドラマに加えて、ミステリー的な面白さとスリルまである。
最初の方で、17世紀のイタリアの工房のシーンが出る。もったいつけた歩き方をする男がすぐ目につくが、その歩き方で、この男(バイオリン職人ニコロ・ブソッティ)の性格をずばり表していたことがすぐにわかる。
修道院でバイオリンの天才的な才能を見せる一人の孤児を演じるクリストフ・コンツェが愛らしく、せつなく、哀れな感じを天才的に演じている。彼が、修道院で見出され、すぐれた教師のもとで腕を磨いていくくだりは、才能ある者が庇護されることの必然性のようなものをconvinsingに描いている。
人は、誰でも、一度は、天才とみなされることがある(少なくとも、幼児のとき、親たちは自分の子供を一度はそう思う)。それが、続くかどうかは別として。その思い出は、こういうシーンのなかでよみがえる。
鑑定士のサミュエル・L・ジャクソンとエレクトロニクスのエキスパートの若い男とが、問題のヴァイオリンが本物の名器であることを発見したとき、「こうなると、自分のものにしたくなる」と意見が一致するが、その技術者が、そのヴァイオリンをバラして納得がいくまで内部を研究してみたいと語るのが印象的だった。「たとえば――」と言うかのように、そのヴァイオリンを取り上げ、そのボディに音波を当て、その周波数を上げていく。このシーン、妙に生々しい。
見終わって、若干のこる気分は、うまいと思うが、なんかできすぎていて、あざといという印象。(99-04-06)[Sat May 8 03:02:46 JST 1999 ]

●恋におちたシェイクスピア(Shakespeare in Love/1998/John Madden)(ジョン・マッデン)
場面の転換のスピード感や身ぶりは現代的。シェイクスピア自身、その作品、作中劇からなる3重構造を重層的に動かしながら、大詰めの舞台に持っていく手並みは、職人的とも言える手際よさ。
この映画の魅力は、けっこう論理的なところ。その論理は、ある種、シェイクスピアについて「知ってるつもり」になれるようなところから来る。それがウケる理由でもある。シェイクスピアの非専門家であるわれわれが、漠然と知っていること(たとえば「シェイクスピアはマーローだった」とか、『ロミオとジュリエット』の有名なシーンとか)を次々にヴァーチャルな説明にリンクさせる技法。
『ロミオとジュリエット』が作られるプロセスをシュミレートしてみたところが魅力。
舞台に女性を登場させるきっかけを作ったのはシェイクスピアが初めなのか?
シェイクスピアは、実はマーローではないかという説があったが、ここでは、別人として登場し、シェイクスピアのその名を騙ったことによって殺害されるという設定になっている。
悩めるシェイクスピアが、フロイト派のセラピストのようなやりかたで話を聞く「医師」のところへ通うシーンは、しゃれのつもりか?(99-04-08)[Sat May 8 03:01:43 JST 1999 ]

●天井桟敷のみだらな人々(Illuminata/1998/John Turturro)(ジョン・タトゥーロ)
邦題はえらく気を引くが、予想外に退屈だった。ジョン・タトゥーロはいい俳優だが、演出の才はなさそう。
話は、要するにいくつもの(男ー女/男ー男)カップルの物語。
全体をダメにしているのは、劇場主を演るドナル・マッカン。こいつは、『ゴドーを待ちながら』なんかには適役なんだろうが、その風貌でこの映画の舞台となる舞台裏に間延びした雰囲気を与えている。
せっかくのサランドンも、ベン・ギャザラも力を発揮できない。
クリストファー・ウォーケン演じるゲイの辛辣な批評家だけが少しいい味を出している。「こういう集まりに来ると、何年も前に死んだと思っていた人に会える」と彼は言う。
この映画も、そんな趣がある。
色々引用があるのだろう。たとえば、ジョン・トゥーロが入浴するシーンでは、『マラ・サド』のシーンを引用している。
IIIの舞台のシーンは悪くない。奥へ続いているハシゴのような階段の感じいい。最後のシーンは何とか見れる。(99-04-08)[Thu Apr 22 02:31:49 JST 1999 ]

●マイティ・ジョー(Mighty Joe Young/1998/Ron Underwood)(ロン・アンダーウッド)4月公開
自然環境の破壊と官僚的なビジネスへのいまや誰でもが言う批判をあてにしたところが見え見えだし、完全にハリウッド映画の常套的な「文法」にのっとった映画。当然、「悪者」がおり、そいつは最後に破滅する。
ハリウッド映画の常套である〈ときには法律も破られるべし〉というアメリカの発想も、ちゃんと学習される――こういう「学習」は、一面で、強者によるアグレッシブな侵略を正当化してきたが、他方では、国家の存在を相対化し、国家への盲従をおさえる機能がある。
それでふと思い出したが、日の丸・君が代を法制化は、それを破るということの反国家性・反体制性を明確にする意味でいいかもしれない。
物言わぬゴリラは、ちょっと差別的な感じ。
アフリカの密林にこもってゴリラと暮らした動物学者の母と娘。母は、いかにも欲深そうな密猟者(映画のなかでは、「アルメニア」あたりの出身を示唆していたが、「アンドレー。シュトラッサー」という名前からするとドイツ人でもいい)に殺される。話は一挙12年飛ぶ。娘のジル(シャリーズ・セルロン)は、成長し、ともに幼いときから知っていたゴリラのジョーも(巨大すぎるほど)成長する。そこへ、動物の保護活動をしている動物学者の青年がやってくる。こうなると、大体話は読めるわけだが、見どころは、ジルがどうジョーをコントロールするかだろう。
しかし、彼女がいつも懐中電灯を使っていたので、ロスに連れてこられたジョーが、空にビームが延びるサーチライトを彼女の懐中電灯と思って、その現場に来るというのは、なんかゴリラを馬鹿にしている感じ。
ジョーを怪物あつかいするのは論外として、彼を対等の関係では描いていない――そうした場合、出て来るのは、たかだか「幼い者や無知なるものに愛を」という19世紀流のチャリティ思想(攻撃・侵略の補完思想なのだ)。
In Memory of Zack StutmannのZackとは誰?
ところで、この映画のトップに出て来るRKOのロゴマークのバックで流れるモールス信号は、『エネミー・オブ・アメリカ』のときと違い、一応「R」「K」「O」と言っている。(99-03-01)[Thu Apr 22 01:30:39 JST 1999 ]

●共犯者
竹中直人の出る映画は、近年、どれもよくないが、『完全飼育』で少し見直した。彼の演技は、いつも空回りが多い。
犯罪者が向いているということだけではないだろう。たとえば、竹中(カルロス)がうどんを食っているシーンがいい。彼は、小泉をいじめる「夫」の腕を、うどんに飛び込んできた木のサンダルでなぐりつける。二人の出会い。
小泉が初めて銃を連射するシーンは、短いながら、カサベテスの『グロリア』で、ジーナ・ローランズがマフィアの車をピストルで転倒させるシーンに匹敵する。
銃口から出る火を効果的に映す技術がハリウッドから取り入れられている。そういうシーンは、迫力はあるが、どこかで見たハリウッド映画の二番煎じであることはたしか。しかし、映画に「劇画」的効果を加えるのには、適切な選択。
もともと劇画を描いていた監督だからというわけではないが、(それは当然意識的だろう)、タッチとリズムは、完全に劇画調。
劇画調であるということは、そのリアリティーは、最初から相対化されているということ。だから、この映画に関して、ドラマの「安易」さや奥行きのなさを非難するのは当たらない。
内田裕也が演じる殺し屋は、見かけ倒しである。まだ弟を演じる大沢樹生の方がいい。やたらとふりまく「ファッキング」がよくない。あまり濫用して動詞にまでつけてしまうのは、しゃれにならない。この語は、普通、名詞につく (what a fucking time isit?)。形容詞にもつくが、それは、名詞が省略されているからだ (too fucking slow [time])。つまり、こういう使い方をされると、内田は、口汚ないしゃべり方をする男というよりも、なんかアホな男の感じがしてしまう。
カルロスに昔、皆殺しにあった暴力団の唯一の生き残りである梶(成瀬正孝も、この種の人間のパターンながら、いい味を出している)は、頭部に受けた銃弾のためにいまも頭痛が止まらないが、彼は、カルロスを畏敬している。二人の関係は、この手の映画の定石をおさえている。[Thu Apr 15 00:55:00 JST 1999 ]