大学を楽しくさせる実験
大学はつまらない、と多くの学生が言う。いまの学生はひどいです、と教師が集まると話題になる。じゃあ、自分たちが学生だったとき大学は面白かったかというと、そう断言できる者は少ない。教師を三〇年以上やっているわたしでも、むかしが特によかったとは言えない。面白い授業もつまらない授業もあったし、学生もさまざまだった。そして、判断の基準も、その時代その時代で異なるのである。だから、いま大学や学生を問題にするとすれば、この時代の価値基準がどこにあるかを考えなければならない。

「どうしていまの学生は自分の意見をはっきり言わないんだろう?」という問いをゼミの学生に投げかけたとき、一人の学生が、いみじくもこう言った。「目立つのはいやだから・・・」。そこでわたしがすかさず、「無視されるのもいやなんでしょう?」と言うと、あまり話に乗っていなかった者も、「そう、そう」とうなずいた。そうなのだ。「目立つのもいや、でも無視されるのもいや」なのだ。

事情を知らないと、えらく二律背反のようにみえるが、このような状況を醸成する状況がある。理論的な議論がもりあがらないので、少しソーシャリゼイションを強めようと思い、パーティを提案し、その企画をゼミ学生にまかせるとき、そのプログラムに決まって組み込まれるのがゲームである。そして、その最中、学生たちは、ふだんでは想像できないような「活発」な態度で発言し、笑い、もりあがる。これは、「目立つのもいや、でも無視されるのもいや」と言った学生にあるまじき態度のように見えるが、実は、ゲームこそがこの「二律背反」を解決してくれる装置であり、ゲームになれてしまった学生が、次第に単独で目立つことを避けるようになったのである。

ゲームにはルールがあり、勝者と敗者が必ずおり、勝敗が明確に分かれる。が、「所詮はゲーム」だからという理屈で、たとえ自分が勝っても、「目立つ」ことを正当化できるし、負けても、あきらめられる。勝てば、どハデに「やったー!」と叫び、大いに目立つが、それは、その人の才能やユニークさで目だったのではなく、たまたまゲームの偶然的な結果でそうなったのだ。ゲームだから、どんなに運が悪い者でも、ときには勝者になり、「無視」されっぱなしということはない。勝たなくても、ゲームのあいだは自己顕示ができる。おそらく、学生のこうしたゲーム志向は、テレビゲームやコンピュータゲームだけでなく、それ以前の○×式の試験によってもつちかわれてきたのだろう。また、「出る釘は打たれる」から横を見て行動する日本の集団主義(かつてわたしはそれを「みんな主義」と名づけたことがある)も影響しているだろう。ゲームは、「協調」を前提とし、ヴァーチャルに「目立つ」ためのすぐれた装置なのだ。が、これでは、ナンバー・ワン志向が強まるだけで、創造性にとって重要なオンリー・ワン志向は生まれない。

ほどほどに「目立ち」たく、かつ「無視」されたくないというテイストは、アルバイトというきわめて特殊日本的な労働の近年の状況によっても強化された。むろん、どこの国でもパートタイム労働という意味での「アルバイト」はある。しかし、せっかく授業料を払っている講義やゼミを休んでもやる学生アルバイト、生活費よりも遊興費をかせぐことが主な学生アルバイトというものは、他の国ではあまりない。日本では、大学で過ごすよりもアルバイト職場で過ごす時間の方が長い学生がいるし、たとえ時間は短くてもその影響は大学でのそれをはるかに上回っている。というのも、雇い主市場になっているいまのパートタイム労働では、厳密に整備されたマニュアルや規則があり、その現場でアルバイターが「異」をとなえることは許されないので、おのずから、柔順な態度が身についてしまうからである。

図式的に言うと、一九八九年以後、「造反有理」の時代は終わり、「造反無理」の時代になった。いま、もし何らかの「異議」をとなえたければ、「異」を声高に叫んだり「デモ」したりするのではなく、法的手段に訴えるというのがトレンドである。ただし、「造反無理」の時代の「訴訟有理」は、ごくかぎられた人たちにとってのみ可能であって、大多数の人々は「造反無理」のままだまって理不尽を耐えるしかない。学生も同様である。授業がつまらなければ、大学に抗議するというのが、一九六〇〜七〇年代流だとすれば、いまは、一部がクレイマーとして(文書で)抗議するのを除けば、さぼれる授業はさぼり、アルバイトに専念する。そして、その現場で大学とは異なる「教育」を身につけてしまう。

ここから、学生批判や大学不要論が出てくるし、現実に、世を憂える論の多くは、「いまの若者」をターゲットにしている。わたしは、「いまの若者」を変えなければ国が滅びるとは思わないし、大学とは異なる教育制度が生まれる可能性もあると考えるが、しかし、大学で教員をしている身としては、講義やゼミの最中に学生が心そこにあらずという顔をしているのを見るのはたまらないし、出て来ない学生が多いというのもがまんがならない。そこで、教師の側からこういう現状を変える試みをあれこれ実践してきた。一九七〇年代末から一九八〇年代にかけて行った自由ラジオの実験も、もともとはゼミ(和光大学)で始めたものだ。一九八七年に行った「スターリン・コンサート騒動」も、大学の期末試験制度を異化し、大学のキャンパスの別の使い方を実験する試みだった。

面白いことに、そういう実験は、結果的にわたしが勤め先を離れるという結果を生んだ。わたしは、和光大学で非常勤ながら一七年間にわたり好き勝手をやらせてもらった。が、実験大学として誕生したこの大学が次第に「普通」の大学になり、期末試験をしないわたしの講義に九〇〇人以上の受講生が生まれ、実質的な出席者は二〇〇人程度という矛盾に直面したときにわたしが試みた実験は物議をかもした。「今年は試験をやる」と掲示したためにほぼ全員出席した学生は、体育館に準備した遠藤ミチロウのバンド「スターリン」の生演奏を聴かされることになったが、演奏中、勢いに乗ったミチロウが、バンドの宣伝ビラをばらまき、「この紙に名前と学籍番号を書いて教務課に持っていかないと単位はもらえない」と叫んだことで、学内は大混乱になった。体育館に土足で踏み込んだことも非難の的となった。


捨てる神あれば拾う神ありで、その後、武蔵野美術大学映像学科に呼ばれたわたしは、アートの大学なのだからもっと好き勝手なことができるだろうと勝手に思い込んだ。当時としては豊富な映像・音響機材を利用して自分の授業で「マルチメディア講義」をいちはやくとりいれもしたが、新しい試みとしては、外部からアーティストを呼んで、普通の劇場やスペースではできないことをやってもらい、キャンパスを「普通」ではなくするというものだった。これは、実際に二年以上つづいたのだが、驚いたのは、アートの大学というのは、逆に「実験的」なことに関しては意外に保守的だということだった。アーティスト出身の教員が多いから、みなが殿様で、自分以外が「変」なことをやっているのを許せないという側面もあったが、所詮大学は大学で、究極的には文部省からの規制を守らざるを得ないことはどこも同じなのだった。

日本の場合、火を使ったり裸体をさらすパフォーマンス・アーティストはなかなか場所がない。が、とわたしは思った——大学にはある種の「自治」があるはずだから、キャンパスでそういうパフォーマンスを演ってもらうのはどうか、と。このアイデアは、アーティストにとっても、また学生にとっても非常に刺激的で、アーティストは、外国では自由に演れたが国内ではやりにくいことができるというので喜んだ。学生は準備に参加し、助演者になる者もいた。映像学科の学生なので、ビデオ撮影の格好の被写体を得られたことに興奮しもした。しかし、こうした祝祭状況はながくは続かなかった。わたしも、次第に、大学当局と消防法がどうのこうのという「折衝」をするのに嫌気がさしてきた。だから、一年ほどこの企画がとだえたある日、色川大吉氏と田村紀雄氏から声をかけられたとき、(ほかにも色々理由があったが)あっさりと武蔵野美術大学を辞めてしまった。


東京経済大学への誘いを受けたとき、インスティトゥーションの限界に嫌気をさしていたわたしは、難色を示し、「大学だから規制もあるし、それとぼくは教授会に出るのが苦手で・・・」と色川氏にもらした。すると氏は、「いやあ、東経は教員主導だし、ぼくのような勝手なことをしている者でもいられるんだから・・・ぼくなんか教授会なんかには出ませんよ」と言って、わたしの心配を一掃した。それから一〇年以上たち、いまだにわたしが在籍していることを見ると、色川氏の言った通りだったのかもしれないが、氏のために言っておくと、氏の「教授会なんかには出ませんよ」というのは、誇張であって、事実、わたしを採用するための推薦演説を教授会でやったのは色川氏であることを大分たってから知った。

色川氏ご推薦の東経大でも、学内でさまざまな実験を試みる過程ではそれなりの「闘い」や「折衝」があった。口に火のついたワイヤーをくわえて構内を裸で踊りまくったり、サーカス芸人がつける高脚をはいて学内をのし歩くというようなパフォーマンスには、学生課が神経をとがらせた。楽器の音が他の「授業妨害」(こういう名詞表現があるらしい)になるのではないかと言われたり、実際に近隣の家がパトカーを呼んでしまい、総務課から呼び出しを受けた。


しかし、近年になって、面白い状況が生じてきた。これは、いわゆる少子化との関連で日本の大学全般で起きている現象だが、学生数の減少を予測した大学が学生の気を引くための試みに関心を持ちはじめたのだ。「集客」の必要性からか広報課の取材が入るようなこともはじまった。そして二〇〇四年から、わたしは、「身体表現」(現在は「身体表現ワークショップ」)という、毎回ゲストを呼ぶことを前提とした講座をまかされることになった。

そこでわたしが始めたのは、教室を教室でなくし、教室をつかのま「劇場」や「クラブ」や「パフォーマンス・スペース」にしてしまうことである。以前から似たような試みは何度もやっていたが、二〇〇二年にわたしの授業のなかで半年間試みた「教室をパフォーマンス・アートの現場にする」(http://anarchy.translocal.jp/TKU/2002/Artaud/ に映像記録がある)を当面のモデルにすることにした。教室は、「スタジオ」とよばれる天井が高く、映像と音響の機器がそろっている、リハーサル・スペースのような空間なので、ここで授業をすることだけでも、すでに普通の授業とはちがうのだが、そこをさらに創造的な場にエスカレートできないかというのがわたしのねらいである。そして、参加するアーティストにとっても他では経験できないことを試す空間になれば、なおさらだ。

今年[2005年]の 4 月から 7 月までの前期の企画では、10 組のアーティストや表現者を招待した。水嶋一江氏が率いる「ストリングラフィ」のワークショップと実演では、水嶋氏を含む五人の女性アーティストが、糸と紙コップをつかった巨大な楽器を「スタジオ」内に作り、学生と一緒に音を出し、最後に彼女らの演奏を見せるというもの。これは、「楽器」が出来上がる過程を見ることができるということと、自分らがいる空間が「楽器」になってしまうのを実体験するという点で、非常に感動をあたえたようだ。ヘアサロン「ジャック・デサンジュ」の白鳥徳雄氏は、六人のスタッフを連れてやって来て、ヘアメイクの理論をパワーポイントで「講義」したのち、二人のモデルを使って実際にカットのテクニックを見せ、最後に学生のなかから希望者を求め、好みのカットを実演した。これは、学生もまさか「教室」が美容空間に変容するとは予想しなかったので、なかなかインパクトがあった。活動弁士の澤登翠氏は、片岡知恵蔵主演の『血煙高田の馬場』(伊藤大輔監督)とバスター・キートンの『探偵学入門』の歴史的な無声映画を上映し、名調子を聴かせた。この学生の多くは、「弁士」という言葉を知らなかった。「弁士」を「弁護士」の略だと思っている者もいた。だから、弁士つきで映画を見るなどというのはみな初めてで、普通の講義では見られないような真剣さでスクリーンに見入っていた。

澤登氏は、かなり頻繁に弁士の実演しているし、衛星放送にもよく出ているから、少し「いま」に関心のある者なら、「弁士」の何たるかぐらいは知っているはずなのだが、不幸にしてわたしの学生たちは知らなかった。だから、鈴木志郎康氏が、玉野真一、佐俣由美、井出芽衣らの若い作家による実験映像を見せ、最後に鈴木氏の最新作『極私的に遂に古稀』を見せたときは、多くの学生がしばし呆然、困惑と感動の入り混じった不思議な雰囲気のなかに引き込まれた。今野雄二氏は、「身体」というテーマを意識し、まず「食」を描いた『恋人たちの食卓』と『バベットの晩餐会』の名場面を見せ、そこから「足」、「手」を独特に描いた映画を引用しながら、さらにジェンダーやセクシャリティの問題に話を進めた。これは、ある意味では「講義」だが、「教師」ではなくラジオやテレビの人である今野氏の経験がにじみ出た「ヴィデオジョッキー」(VJ) のノリが、一八〇分間学生を飽きさせないのだった。

全体で三時間のイヴェントを毎週企画するというのは、けっこう大変だ。ゲストの人たちはみな気を入れてやってくれるので、たいていは公演を開始する三時間まえぐらいに現場に来る。だから、わたしの側としては、自分で講義をするときよりも早起きをしなければならない。機材はあるが、常住のスタッフがいるわけではないから、前日の夜、わたし一人か、たまに手伝ってくれる学生といっしょに仕込みをする。この状況は以前と少しちがってきた。昔は(という言い方はいやだが)、正規の授業時間に学生を巻き込んだ形(つまり学生が「スタッフ」になる)で仕込みをし、ポスターやチラシなども学生が作って、夕方から外部のお客も呼んで、文字通りの「公演」(入場料は取らないが)を打つことができた。わたしの学生のなかには、そういうことに関わって人生を過った者も数人いる。しかし、いまはこのような方法を取るのがむずかしい。授業時間のあとにアルバイトを入れている学生が多いからだ。

この話をこの種の企画に武蔵美時代からほとんど毎年つきあってくれている舞踏家の吉本大輔氏にぽろりと話したら、「粉川さんが歳とったんじゃないんですか」といなされた。たしかにそうかもしれない。昔なら、学生がいやがっても無理矢理やらせたかもしれない。しかし、統計をとったわけではないが、親にどなられた経験のないという学生が多いいまの状況のなかでは、「強制」は流行らないのである。だから、一週間一回でもどこか普段と違った経験と驚きを経験すれば、その影響がいずれ好奇心や創造性を刺激し、自分から問題を提起するようになるのではないかということに期待をかけているのである。とはいえ、一方では、本当にそうなのかなという疑問をぬぐい去ることもできない。前期の最終日に、アンケートをとったら、「初めて」出席したという学生が、「こんなに面白いことをやってるんだったら、ちゃんと出席をとってください」と書いていた。ああ!

[注]上述の文章は、2005年に『グラフィケーション』(140号)に書いたエッセーをもとにしているが、そのタイトルである「大学を実験『劇場』に」(これは編集部による)は、実は、1999年に『幕張アーバニスト』という雑誌に書いた「 バーチャル・ユニバーシティとフィジカル・キャンパス——いかにして大学を再生するか」(これも編集部による)と関連しあっている。ちなみに、後者で言ったことは、2007年のいまでも有効であると思う。(粉川哲夫

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