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この授業は「ディナー」ではなく「ランチ」である。【デザート】がつくときとつかないときとがある。すべての「メニュー」が授業の際に出たわけではない。「シェフ」の気分で「おまけ」がふえることが多い。授業中寝ていて「食べそこなった」ひとも、ここでは、公平に食べることができる。

2002-12-16[10]

【アペリティフ】
◆2002年最終授業なので、恒例の「レポート提出」をしてもらう。まえまえから予告しておいたので、F307教室に入りきれない人数の学生が集まる。これは、予測できたので、別の教室を用意した。6号館には空き部屋がないので、5号館の大きなE101へ。ここは、かつてよく使ったことがあり、機材の使い方はよく知っている。しかし、万が一のために機材のテストをした。プロジェクターの彩度が弱いのが気になるが、いまとなってはしかたがない。
◆DVD版の『スリー・キングス』(Three Kings/1999)を時間まえから上映。戦争とハリウッド映画との関係は深い。今年の授業では、この問題についてあまり立ち入って考える機会がなかったので、イントロに使う。教室変更以前に流していたのでは見れない? ぼくの授業は授業時間のあいだだけではないのさ。
◆「レポート提出」というのは、わたしの場合、単位取得を目的に、「レポート提出」と言われたときだけ出てくる気の毒な学生に、年1度か2度だけでも「メディア論」に出たかいがあるような時間を経験してもらうための特別授業である。だから、プレゼン的には、緊張して行なう。

【メインディッシュ】
◆映画についてにかぎらず、講義でもゼミでも、「わからない」という言葉を安易に使う傾向がある。しかし、「わからない」とはどういうことか? 新聞社なども原稿を依頼してくるとき、「わかりやすい」文章を期待する。しかし、「わかりやすい」というのは、どこかでごまかしがあるのではないか? だって、単純な現実など、どこにもないからである。
◆このことを映像で考えるために、◆『第三の男』『救命士』『バニラ・スカイ』『マルコビッチの穴』の4つの映画から最大10数分までのシーンを用意した。

『第三の男』(The Third Man/1949)は、言わずと知れたキャロル・リードの「名作」。第2次世界大戦の終了から冷戦初期の時代に西側と東側ブロックをわたり歩いて闇の商売をしている男ハリー Harry(オーソン・ウェルズ)が、友人ホリー Holly(ジョゼフ・コットン)のまえに姿を現わすシーン。彼は、ハリーがてっきり死んだと思っていた。
◆ハリーは、ウィーンの夜半の街頭でつけられていると感じ、道路の向かい側にむかって挑発の声を発する。建物のくぼみのところに男の足と猫の姿が見える。(前から見ていれば、この猫が、ハリーの恋人の猫で、ハリーになついていたことを思いだすだろう)。そのとき、そばの建物の窓に声がして明かりが灯る。その瞬間、物陰の男の顔に明かりが射し込み、男の顔がはっきりとわかる。「ハリーじゃないか}とホリーは叫ぶ。が、道を渡ろうとすると、走ってきた車にさえぎられてホリーは渡れない。そしてその短い瞬間にハリーは路地に逃げ去ってしまう。路地の壁のハリーの走る影が映るが、ホリーは追いつかない。
◆この映像的に極めて様式化されたこのシーンは、「わかる」といえば、「わかる」し、「わからない」と言えばわからない。映画文法のなかでは極めて「わかり」やすいが、日常的現実と照合すると、こういうことは起こりえないとい意識にかられて、「わからなく」なる。
『救命士』(Bringing out the Dead/1999)が『タクシードライバー』と似ているのは、マーティン・スコセッシ(監督)とポール・シュレーダー(脚本)という同じ組み合わせだからだろうか? ネオンが溶け出したようなニューヨークの夜の街を車(こちらはタクシーではなく救急車だ)を走らせるシーンなどそっくりだ。取り上げたシーンは、その救急隊員(ニコラス・ケイジとジョン・グッドマン)が、家族のまえで急に心臓発作を起こして昏倒した男にアパートへ急行し、救急処置をするところ。2人の努力にもかかわらず、やがて心電図には緑の直線が走る。すると、泣き叫ぶ家族をまえに、ケイジがぼそっと「好きだった音楽はないか?」と言う。家族はわけがわからぬまま、フランク・シナトラの音楽をかける。すると、そのとたん、男の心臓に鼓動がよみがえってくるのだ。
◆映像的には非常に「わかりやすい」このシーンも、考えてみると、よく「わからない」。なぜ音楽などで男は息を吹き返したのか? しかし、映画は、典型を映像化しもするが、特例を映像化しもする。それにしても、このシーンは感動的だ。
『バニラ・スカイ』(Vanilla Sky/2002)の冒頭部分の有名なシーン。タイムズスクウェアを完全に人払いして撮ったという。ニューヨークのセントラルパークに面した豪華なマンションの寝室のベッドの上で目覚めた男(トム・クルーズ)が、支度をして車で外へ出る。すでにセントラル・パークを抜けたときに気づいたが、まわりに人気がない。時計は午前9時。なぜ ? タイムズ・スクウェアに近づくにつれて、男の不安感は大きくなる。なぜ人がいなんだ?! 彼は、車を降り、タイムズ・スクウェアの車道を絶叫しながら走る。
◆この映画は、後半もっと複雑な構成になるが、ここでは、単純に、男が同じベッドの上で夢から醒めるという形で、このシーンを夢のなかのものだと「わからせる」。しかし、映画的に見た場合には、別にそういうやりかたで「わからせ」てくれなくてもいい。むしろ、どうしてそういうふうに謎解きをしてしまうのかという疑問が残る。
『マルコビッチの穴』(Being John Malkovich/1999) から、人形師の主人公(ジョン・キューザック)が、街頭での人形劇が客の反感を買い、新聞のコラムで職を見つけ、その会社を訪ねるシーンと、その会社で働き始めたある日、整理していたファイルがファイルキャビネットと壁とのあいだに落ちてしまったので、そのファイルをどかせると、そこに小さなドアーがあるのを発見するシーンとをコピー。
◆基本の発想がカフカ的なので、「わからない」ところが面白いのだが、何でも常識とつき合わせないと気がすまないひとにはさっぱり「わからない」だろう。なにせ、この会社のオフィースがある階は、7 1/2階なのだ。入社の面接を受けにきたキューザックが、エレベータに乗り、表示を見るとどこにも半階の表示はないのでとまどっていると、同乗した黒人のおばさんが、6階と7階のあいだで非常停止ボタンを押し、エレベータをとめ、バールでドアーをこじ開ける。すると、普通の高さの半分しかない7 1/2階の床に降りられるのである。これは、「わからない」ひとには絶対わからない。それから、穴を発見して、そこに入ると、そのまま吸い込まれ、俳優ジョン・マルコビッチの頭のなかに入ってしまい、15分後にニュージャージーの高速道路ぎわに放り投げられる――これは、「わかる」とか「わからない」とかの問題ではない。
◆もっとも、わたしは、今年の3月にニューヨークで友人のディーディ・ハレックと彼女の夫君ジョエル・コヴェールといっしょにIMC (Independent Media Center)をたづねたとき、この事務所がある階のボタンを押したら、エレベータは、床がドアーのまんなかに来るあたりで止まり、外へ出られないのだった。すると、同じエレベータに乗っていた(たぶん上階に住む)少年が、「一回上まで行ってから戻ると、出られるよ」と教えてくれた。このエレベータは、上りと下りとでものすごい段差ができてしまうらしいのだが、そのときわたしの頭に浮かんだのは『マルコビッチの穴』のエレベータのシーンだった。


2002-12-09[9]

【アペリティフ】
◆ハワード・スターンの『プライベート・パーツ』の、前回見れなかった終わりのシーンを見る。彼は、NBCというおかたい局のなかで、ディレクターや上層部の圧力に抗しながら、性的ネタを白昼堂々放送して、次第に全米人気No.1のラジオ・パーソナリティにのし上がって行く。映画のなかで、初めてNBCを訪れたとき、当時最高の人気を誇ったドン・アイムスの部屋に挨拶に行き、つぱねられるシーンがった。(ドン・アイムスは、いまでもかっこいいけど)。しかし、彼は、アイムスとは全然ちがうタイプだし、また、クラブで4文字語を連発し、表現の自由のために闘ったレニー・ブルースとも違う。いま映画では、fuckやfuckingのような「ヴァルガー」な言葉が抵抗なく使われるが、1960年代後半までは、アメリカでも、公共の場所でそういう言葉を使うことは「犯罪」行為とみなされた。→ボブ・ホッシー監督『レニー・ブルース』(Lenny/1974)参照。
◆ハワード・スターンにとって、「プライバシー」の世界、「プライベート・パーツ」は、存在価値がない。その意味で彼は、「プライバシーなき」社会を先取りしている一面がある。そしてそこでは、「ストーカー」も「監視」も「あたりまえ」のものとなる。
『ストーカー』(One Hour Photo/2002)への言及。この作品の主人公(ロビン・ウィリアムズ)は、スーパーのDPEコーナを長く担当してきて、常連が持ち込むフィルムのプリントはみな見ている。そこには、フィルムの「プライバシー」はない。しかし、これは、世間的常識からすると「異常」であり、「ストーカー」的なことをやっていることになる。そして、彼自身、本来は自分から切り離されている他人の世界との境目がわからなくなる。
◆一体「プライバシー」とは何か? プライバシーなど存在しなくなるようなメディア環境が昂進する状況のなかで、プライバシーを守るための強固なガードがはりめぐらされる。かつてニューヨーカーが、窃盗や強盗の侵入を避けるためにドアの鍵を二重三重にかけたように、コンピュータの使用者は、ファイヤーウォールや暗号の砦を築いている。プライバシーなどもうない、終わりだと言い切ってしまえば、すっきりするのに、そうできない屈折した状況。
◆公開される『マイノリティ・リポート』のインターネット上の「予告」クリップをビデオに落としたものを見せる(プロジェクターのリスポンスが悪いのでPCから直接流すのをやめた)。「全面監視社会」の典型的なイメージとして。
【メインディッシュ】
◆監視の周辺を描いた映像を見る:
『ガタカ』(Gattaca/1997)には、近未来の会社で働く職員が指紋感知装置でチェックされるシーンが出て来るが、こういう世界はすでに現実のものとなっている。
『陰謀のセオリー』(Conspiracy Theory/1997)の主人公(メル・ギブソン)は、タクシーの運転手をしているが、自分が見張られているという意識と、世界は陰謀で動いているという信念をもって生きている。そして、その信念が正しいことが明らかになる。「陰謀理論」というのは、決しておとろえることにない歴史観である。ケネディの暗殺、9・11事件・・・多くの「陰謀理論」が存在する。その真偽は別にして、すくなくとも、監視が普遍化する時代には、ひとは、偶然よりも「陰謀」を信じるようになる。
『VR5』(VR.5/1995)は、テレビ・シリーズの映画化だが、ハッカーの女主人公は、自分で作ったVR装置で非日常世界の浮遊を楽しんでいるが、いつも彼女に意地悪をする家主の男がまた文句の電話をしてきたので、彼女は、その回線をVR装置につなぐ。男は、いきなり悪夢の世界に引き込まれ、さんざんな目に遇う。こうした願望は、監視技術を手にした者の意識に共通する。メディア・テクノロジーで他人を自由にあやつりたいという欲望は、監視ということの基礎にある。
『バーチャル・ウォーズ2』(Lawnmower Man 2:Beyond cyberspace/1996)は、B級だが、そこに出て来るサイバースペース上でさまざまな空間を自由に動きまわるハッカーの夢は、依然として現代人の願望である。インターネットのサーフィン(ネットサーフィン)やケータイの使用は、そうした欲望を不完全ながら満たしている。
『ザ・ブルード』 (The Brood/1979)、『スキャナー』(Scanners/1981)、『ビデオドローム』(Videodrome/1983)と続くデイヴィッド・クロネンバーグの諸作品は、現代のメディアを考える上で依然として重要である。『デッド・ゾーン』(The Dead Zone/1983)には、交通事故で5年間意識が醒めなかった主人公(クリストファー・ウォーケン)が、予知の超能力を発揮するようになる。予知能力への願望もまた、監視に時代のトレンドである。
『タイムボンバー』(Timebomb/1991)は、洗脳されテロリストになった男(マイケル・ビーン)の話である。ここには、軍が開発した大げさな洗脳装置が出て来るが、このような装置よりも、テレビとケータイとパソコンに囲まれた現代の日常生活のほうがよほど強力な「洗脳装置」だということを知るべきだ。それと同時に、このことは、個々人がそれぞれに独自のメディア環境を持てば、国家やマスコミが方向づけるのとは別の「自己洗脳」ができるということでもある。

2002-12-02[8]

【アペリティフ】
◆近く封切られるマーティン・スコセッシの新作『ギャング・オブ・ニューヨーク』(Gangs of New York/2002)のネット上のクリップとダウンタウンの地図を使って背景を紹介。どのみち先住民(インディアン)よりはあとから来たのに、自分を「ネイティヴ」だと僭称し、それより後から来た者を排除する者たちと、非排除者であると同時に、侵入者でもあらざるを得なかった者たちとの闘いのなかで作られたアメリカ社会。最初からどこか間違っていた。
◆この映画については、「シネマノート」(2002年11月19日)にも書いたが、『週刊金曜日』の映画欄でも批評したので、見てほしい。
【メインディシュ】
『プライベート・パーツ』(Private Parts/1997)を時間いっぱい見る。
◆1980年代後半以降、アメリカでは「トーク・ラジオ」が広まった。そのスターはハワード・スターである。彼は、タレントから政治家にいたるボーダーレスな相手とのトークのなかでずけずけと相手の「プライシー」を無視した質問をし、人気を獲得していった。この映画は、ベストセラーになった彼の自伝をベティ・トーマスが演出し、ハワード自身が主演している。ほかに、彼と実際に関わりのあったAC/DCのオジー・オズボーン、ハマー、番組の名コンビのロビン・クイバース(実に知的でチャーミングな黒人女性パーソナリティ)、フレッド・ノリスらが実名で出演しているのも見もの。

2002-11-25[7]

【アペリティフ】
◆来年公開のロマン・ポランスキーの力作『戦場のピアニスト』(The pianist/2002)の「予告編」の異なる言語の版をインターネットから集め、紹介する。ナチスのワルシャワ占拠、ユダヤ人の収容(最初は市内に作ったワルソー・ゲットへ、そしてアウシュヴィッツへ)、そうした危機的状況のなかを偶然と知りあいの助けでナチの魔手をのがれ、しかも最後はナチの将校に救われたピアニストの実話にもとづくこの映画は、ポランスキーの体験談でもある。
◆プロジェクターの不調ですべて紹介できなかったが、「英語版」、「フランス語版」、「英語だがロシアのサイトにあるもの」、「ポーランド語版」、「ドイツ語版」を比較。予想できるように、ドイツ語版では、フランス語版ではっきりと映さされた、ナチがワルソー・ゲットの強制労働で衰弱したユダヤ人を無慈悲に銃殺するシーンは映さない。不思議なのは、ポーランド語版が、ナチの暴力シーンは映さず、ポ=ランド人の主人公のシーンをハイレゾルーションの映像で見せること。
【メインディッシュ】
◆現代の否定的動向は、すでにナチズムのなかでほとんど先取りされていた。現代のメディアを考えるためには、ナチズムの研究が必要である。ハリウッド映画の社会的機能は、1930年代のドイツ映画および、ナチの情報操作を一手に引き受けたヨーゼフ・P・ゲッベルスが意図した映画によるプロパガンダを継承している。その意味では、ハリウッドは、ソフトなメディア・ナチズムであると言えないこともない。この点に関しては、ジークフリード・クラカウアーの力作『カリガリからヒットラーまで』(平井正訳、せりか書房)参照。

『将軍たちの夜』(The Night of the Generals/1966)には、ワルシャワに進駐したナチの将軍(ピーター・オトゥール)が、ワルシャワの街の建物に潜むポーランド人のレジスタンスを情け容赦なく一網打尽にし、都市まで破壊するシーンが出て来る。『戦場のピアニスト』と重ねて見るといいだろう。
◆しかし、ナチズムの本質は、単なる残虐な暴力ではない。むしろ、暴力は結果である。重要なのは、ナチの台頭依然に人々の深い無関心と沈黙があるという点である。暴力は、(まさにイジメがそうであるように)無関心の深まりのなかで激化する。現実は矛盾に満ちているが、人は、ある時代に、そうした矛盾と闘うことに飽き、それを無視していくことがある。その結果、そうした無関心と沈黙に乗じてヒトラーのような人物が政権を握る。これは、ジョージ・W・ブッシュのアメリカが陥りはじめている危険な状況でもある。
『ウォーカー』(Walker/1987)は、セックス・ピストルズの『シドとナンシー』(Sid and Nancy/1986)や『ストレイト・トゥ・へル』(Straight to Hell/1987)を撮ったアレックス・コックスの傑作である。アメリカの南米への侵略を象徴する実在の政治家・「暴君」ウィリアム・ウォーカーの生涯がシニカルに描かれる。映画のなかで、敵の銃弾が飛びかう中を全く敵の弾を意識せずに(これは、『将軍たちの夜』のオトゥールの同じ)歩き、ピアノを弾くシーンがあるが、これほど、無関心と暴力との関係を映像化しているシーンはないだろう。
◆ちなみに、このシーンのはじめで、行進するウォーカーの一隊を、路地を見下ろす建物の屋根から「敵」(侵略したのはウ-カーらだが)がいきなり銃撃するシーンは、『今そこにある危機』(Clear and Present Danger/1994)で政府要人とCIAの分析官が南米のベネゼラの町に車で入って行き、銃撃されるシーンと構図がよく似ている。これは、まさにハリウッド映画の構図なのだ。「ゲリラの攻撃」はつねに上からという構図は、9・11で最高の高さに持ち上げられた(この隠喩わかる?)
『キャバレー』(Cabaret/1972)は、クリストファー・イシャウッドの小説『ベルリン物語』にもとづいてジョン・ヴァン・ドゥルーテンが舞台化し、ブロードウェイでヒットし、さらには映画化(I am a Camera.1955)もされたもののリメイクであるが、演出のボブ・フォッシーは、この物語をよりアクチュアルで深いものにした。
◆「キャバレー」とは、日本の「キャバクラ」のことではない。1930年代にドイツのベルリンを中心に流行した独特のエンターテイメント空間の「カバレット」のことである。そこでは、寄席や見世物的な出し物が演じられたが、そのスタイルと傾向は、時代の変化を微妙に反映した。とりわけ、ジョエル・グレイが演じるカバレットのMCは、シニカルな態度で時代に対し微妙な距離を取る。そのときとしてぞっとするような距離と冷酷さのなかに、ナチを生み出してしまった大衆のシニシズムがあらわれている。


2002-11-18[6]

【アペリティフ】
◆先週3分の2ほど見た『エドtv』の終わりの部分を見てもらおうと用意したビデオを再生したが、画面が暗すぎて中止。DVDからエンコードしてビデオに落としたのだが、再生機がちがうとうまくいかないらしい。映像媒体がDVDに移行する傾向があり、ダビングがやっかいになった。教育目的のためにコピーガードをはずすことを許可してほしい。たしか、モスクワには、教育目的にかぎってコンピュータ・ソフトのプロテクトもはずして(自分ではずせるのなら)よいという慣習があるらしい。

【メインディッシュ】
『エドtv』から引き出せる重要なテーマ:
(1)テレビに映るということ
(2)見られているということ
(3)「プライバシー」とは何か
(4)監視と自己露出

『エドtv』と共通の意識や設定のある映画:
『トゥルーマン・ショウ』 (1998/ピーター・ウィアー)
『最後通告』(1998/フレディ・M・ムーラ)
・どちらも、テレビは、ひととおりやれることはやってしまい、「人生」や「自然」を演出するしかなくなったポストブロードキャストの放送局の話。
『トゥルーマン・ショウ』は、ある小さな町で平凡なサラリーマンをしているトゥルーマンの物語。生まれたときから成人してサラリーマンをしているいままで全世界の人々が同名のテレビ番組を通じて彼の日常を覗き見ている。彼の家のいたるところにカメラが隠してあり、彼の日常には「プライバシー」はない。彼の「町」もこの番組のために作られたセットであり、彼だけがそのことを知らない。『エドtv』と違うところは、トゥルーマンには、「見られている」という意識がなく、自分を見させる、自己露出するというエドの特性はない。
『最後通告』は、スイスのさまざまな地方で突然10数人の子供が失踪してしまったという事件からはじまる。その親たちの考えや思想があらわになってくるのと、警察の内部にもさまざなな意見の相違があることなどが批判的にえがかれる。それについては、公開時にわたしが劇場パンフレットのために書いた文章を見てもらうとして、この映画のなかに出て来る「ライブTV」が、『エドtv』と似たような番組を組んでいる。子供が失踪し、絶望したチェリストの父親が、愛器を壊し、死ぬまで泳ぐ無謀な挑戦をする。「ライブTV」がその様を最後まで映す。しかし、この映画は、メディアのこうした暴露的な側面を否定するにとどまらない。同じメディアが、人と人とを新たに結び着け直す機能のあることを示唆する。
『トゥルーマン・ショウ』から『エドtv』への状況変化
前者は後者より先の「未来」をあつかっていると考えられるが、メディア論的には、後者の方が新しい。それは、『トゥルーマン・ショウ』が作られたときよりも、『エドtv』の作られたときの方が、メディア状況が大分違うからである。少なくとも、監視ということがあたりまえになった。テレビカメラは街や室内のいたるところにあるのがいまの現実である。そして、監視は、いまや、たとえば監視カメラで監視し、万引きを捕まえるというような観察監視から、とりあえずデータを取っておく「データ監視」になってきた。この「データ監視」には、ただデータを集積するだけでなく、そのデータから即座に結果を予測・解析(シミュレート)し、たとえばドアをロックしてしまうというようなことも含まれる。とにかく、人間の直接的な知覚をよりどころにするのではなく、電子的なシミュレーションと操作によってすべてを自動的に行なうのである。
◆以下は、監視に関しては示唆するところが大きい。おすすめの本である。
デイヴィッド・ライアン『監視社会』、河村一郎訳、青土社
こういう状況のなかでは、監視を「プライバシーの侵害」だと抗議しているだけでは、どうにもならない。たとえば『デコーダー』(1986/ムシャ)は、壁崩壊前のベルリンの街を舞台に、その音を聴くと暴動を起こしたくなるようなノイズサウンドのテープを作って配布する「テロリスト」とそれを監視し、取り締まる男との奇妙な闘いが基軸になっているが、ここでは、まだ監視が、日常のなかに完全には組み込まれておらず、それを組み込もうとする側とそれに反対する側とのあいだにまだ拮抗かんけいが成立した。なおこの映画には、ノイバウテンのFMアインハイトやウィリアム・S・バロウズが出演していて、独特の臭みを出している。

監視があたりまえになる状況のなかでは、わたしがかねがね主張している「メディア・ヌーディズム」ないしは「デジタル・ヌーディズム」が対抗的な機能を果たす。「ヌーディズム」とは、裸体主義のことであるが、ここでは、電子メディアを使って自分を積極的にさらすことを意味する。『エドtv』のエドは、まさに「メディア・ヌーディスト」だが、程度の差はあれ、現代人は、なんらかの意味で「メディア・ヌーディスト」にならざるを得ない。
◆監視カメラがいたるところに出現し、見られているということがたりまえになると、ひとは、無意識のなかで、自分や他人を意識するということ(社会意識)をそうした監視カメラや外部の装置にまかせてすませる傾向が身につく。完全にまかせられる装置などないにもかかわらず、そういう依存心が身につくのだ。監視カメラは、こうして、外に持ち出されたわれわれ各自の社会意識となる。こういう現象をわたしは、社会意識の外注と呼ぶ。
◆電車のなかで男女が抱き合うとか、女子校生が化粧をするといった、オールド・ジェネレーションのひんしゅくを買う行為も、こういう文脈のなかで考えてみるとよい。電車のなかは、かつては「パブリック・スペース」だったが、すべての空間が監視空間となるいまの時代には(まだ電車のなかに監視カメラはないが、われわれの社会意識として、電車のなかを「パブリック」な――日本では「表向き」の、シナを作るべき――空間としてではなく、相手を(スリか痴漢かテロリストか・・・)監視する、油断のならない空間になりつつあるために、そういう条件のなかでは、「メディア・ヌーディズム」的な態度がその空間から屹立してしまうのである。電車のなかでケータイやゲームに熱中するというのも、こうした空間に対する同じような反応だろう。
◆「メディア・ヌーディズム」の初期形態を描いた映画の例として、『ブレアウイッチ・プロジェクト』(1999/ダニエル・マイリック&エドゥアルド・サンチェス)を推薦したい。このなかで、喧嘩し、殺しあいそうになりながら、にもかかわらずそういう様を最後までビデオに収録しようとするシーンが出てくる。ここでは、ビデオカメラが、自分のアイデンティを決定するのであり、ビデオカメラがなければ、自分の存立があやうくなるのだ。言いかえれば、ビデオカメラが自分をさらして(自己露出)くれることによって、その状況を生き抜くのである。
◆「メディア・ヌーディズム」は、その語の通常の意味あいのように挑発的なものである必要はない。もっと身についた「メディア・ヌーディズム」もあるだろう。『チャンス』(1979/ハル・アシュビー)は、ジャージー・コジンスキーの原作 Being There(1971)の映画化であるが、1980年代になって一般化する「メディアオタク」やメディア中毒現象を形象化した傑作である。子供のときからラジオ(のちにテレビ)と庭だけを「外界」として育ち、いまや初老の歳に達した主人公チャンシーにとって、「見られているということ」、「テレビに映るということ」はあたりまえであり、「プライバシー」という観念とは無縁の世界に生きている。


2002-11-11[5]

『エドtv』 (1999/ロン・ハワード)(EdTV/1999)を時間一杯見る。

◆テレビは、起こったことを映す段階から、映すべきことを起こす段階に入って久しい。だから映されるために生きる/行動するといった生き方は、別にめずらしくはなくなる。テレビ映像の世界と日常世界とが連続性を持ったものになるわけだが、この映画は、そういう2つの世界の接点をテーマにしている。(テレビドラマで幼なじみ→結婚という長期ドラマを演じた内田有紀と吉岡秀隆とが、実生活で結婚するというのは、『エドtv』『トゥルーマン・ショウ』の世界を地で行った感があるが、タレントや映画俳優は、ある意味でそういうことをこれまでもしてきた。

2002-10-28[4]

【アペリティフ】
◆休み時間から、最近上映または上映予定の映画のスチールをコンピュータでスライド式に上映する。タイトルはいちいち出していないが、何かが喚起されればよいと思う。
【メインディッシュ】
◆先週見た『監視 サベイランス』から引き出せるテーマの主要なものを挙げてみる。
(1)ナーブ社NURVのゲリー・ウインストンはマイクロソフト社のビル・ゲイツをパロディ化している→写真参照
(2)ゲリー・ウインストンは、この映画では新しいアイデアやプログラムを手に入れるためには殺人もいとわなかったが、ビル・ゲイツも、殺人こそしなかったが、引き抜き、合併、乗っ取りには手加減しなかった。ビル・ゲイツのそうしたやり方は、多くの本にも書かれているが、TV映画 Pirates of Silicon Vallley (1999/Martyn Burke)(邦題:『バトル・オブ・シリコンバレー』、ワーナーホームビデオ)でも、アップル・コンピュータを創業したスティーヴ・ジョブズと対比的に描かれている。
(3)最後の方で、ウィンストンをやっつけたプログラマーたちが、「オープン・ソース・コード万歳」と叫ぶシーンがあるが、オープン・ソース・コードの流れとマイクロソフト社の「知的所有権」固持の違いを考えてみよう。
◆オープ・ソース・コードの運動が、いかにインターネットを発展させたかをウェブブラウザの例をとって説明する。
●バーナーズ=リー/マーク・アンドリーセン/ジム・クラーク/リナス・ベネディクト・トォーヴァルズ

◆現在普及しているインターネット用のブラウザは、もともと、ティム・バーナーズ=リー(Tim Bernes-Lee)が開始した無償の実験と呼びかけによって方向づけられ、形がさだまった。
◆1990年12月、バーナーズ=リーは、NeXTstep上で動く最初のブラウザを完成した。すでに1989年3月、彼は、勤務するCERN (Geneva European Particle Physics Laboratory ヨーロッパ合同粗粒子原子核機構)にあって、いわばその余業として「WWW Project」を提唱し、研究を開始していた。URL(Uniform Resource Locator――彼自身はUniversal Resource Indentifierという名を提唱した)やHTML(Hyper Markup Languge)の発想は、すべてバーナーズ=リーが主宰するプロジェクトから生まれた。この間の話は、彼の感動的な手記『Webの創成』(高橋徹訳、毎日コミュニケーションズ)に詳しい。
◆NeXTstepとは、スティーブ・ジョブズが、アップルを追われたのち、NeXT社を立ち上げて完成したハードウェア+ソフトウェアであり、「落ちないマック」、「ワークステーションのアルファロメオ」と呼ばれた。現在のOS Xは、ジョブズがアップルに帰り咲いてNeXTの遺産を投入したOSであり、多くの点でNeXTに似ている。
NeXTコンピュータがいかにすぐれ、先進的なマシーン+OSであったかについては、多くのサイトにその記録(例→Black Hole, Inc.)があるが、参考書籍としては、吉田広行・高原利之『NeXTのすべて』(光栄)がよい。わたしの意見では、CPUのパワー(最上位機種NeXTcube Turboでも33MHz !)こそ段違いだが、現在のマックは、マシーンとしての成熟度の点でまだNeXTを越えてはいない。グレイトフル・デッドの作詩家で エレクトロニック・フロンティア・ファンデイション(EFF)の創始者の一人であるジョン・ペリー・バーローも、NeXTの熱烈な愛用者だった。
◆面白いことに、バーナーズ=リーが完成し、公開したウェブ用ブラウザWorldWideWebをNeXTコンピュータ上で起動させ、そこに現行のアドレスを打ち込んでみると、スタイルシートのようなその後に誕生したタグで書かれたものはダメだが、古典的なHTMLで書かれたものは、ほぼそのままで情報を表示する。ちなみにわたしは、依然としてNeXTの愛用者である。その画面上でWorldWideWebを起動させたのをキャプチャーしてお見せしよう。なお、古いキャプチャー映像も参照。
◆画像・動画・音・テキストを表示でき、しかも多くのOS上で動く現在の形のウェブブラウザは、イリノイ大学付属のNCSA(National Center for Supercomputing Applications)の学生、マーク・アンドリーセン(Marc Andreesen)とスタッフのエリック・ビナ(Eric Bina)によって作られたが、アンドリーセンは、バーナーズ=リーが主宰したニューズグループの常連だった。彼は、のちに明らかになるように、バーナーズ=リーとは違い、ネットで商売をすることに関心があったが、1993年2月、一般公開した「Mosaic」(これは、日本では「モザイク」と発音されるが、正確には「モゼーク」 )を無償で提供することにしたのは、バーナーズ=リーの影響があった。バーナーズ=リーの考えは一貫しており、万人が情報を共有することをめざすWebが拡がるためには、一切の「知的財産権」も設けてはならないと考えていた。そしてそのために、かれは、やがてW3C(World Wide Web Consorium)として発足する「コンソーシアム」(「組織」ほど固くない非営利の連合団体)を立ち上げる。
◆その後アンドリーセンの方は、ジム・クラーク(Jim Clark)の誘いを受けて、1994年4月、共同経営者というポストで「モゼーク・コミュニケーションズ」という会社と立ち上げた。この名称には、Mosaicの権利を主張するNCSAからクレームが付き、「ネットスケープ・コミュニケーションズ」と改めた。ここから生まれたのが、いまでも使われているNetscapeNavigatorである。→右の画像(わたし自身が当時キャプチャーした)をクリックすると拡大する。
◆ジム・クラークとは、元スタンフォード大学の教授で、Silicon Graphics(SGI)社を立ち上げたいまで言うVBの草分けの一人である。SGIのワークシュテーションは、少なくとも最近まで、プロの映像処理には不可決のマシーン+OSだった。そのような会社を立ち上げたジム・クラークがなぜSGIをやめ、当時はリスクだらけのウェブビジネスに飛び込んだか、また、開発したNetscapeを無料で提供したか、また、それを、マイクロソフトのInternetExploreがいかに模倣していったかは、『三国志』に劣らず面白い。ネットスケープ社立ち上げの経緯については、ジム・クラーク/オーウェン・エドワーズ『起業家ジム・クラーク』(水野誠一訳、日経BP社)が参考になる。
◆今日のメディア状況は、インターネットなしには考えられない。それを可能にしたいくつかの要因のうち、ティム・バーナーズ・リーが開いたフリーのウェブ・ブラウザの存在を無視することはできない。また、同じころ(1991年)ヘルシンキ大学の学生のリナス・ベネディクト・トォーヴァルズが、Linuxのソースコードの自由な配布を開始した。そしてここから、リチャード・ストールマンが始めた「フリー・ソフトウェア」の運動とは別の新しい「オープン・ソース・コード」の運動が大きな波となって行く。つまり、言いたいことは、トーヴァルズが、『リナックス革命』(河出書房新社)のなかで言っているように、「楽しいからやるんだ」という精神と姿勢が今日のコンピュータ状況の基礎になっているのであり、単なる「奉仕」や「施し」(チャリティ)とは違う意味での「タダ働き」(→脱労働←労働が賃労働としてすべて金額に換算されるのが近代資本主義)の能動的な面が今日の新しい状況を支えており、そこでは、これまでの価値観や意味が根底から変わる動きは出てきているということだ。その意味では、マイクロソフトは、終わりつつある制度を代表している組織だと言えるだろう。そのマイクロソフトでさえ、ウェブブラウザを無料で配布せざるを得ないこの状況の意味を考えるべきだ。


2002-10-21[3]

【アペリティフ】
◆「電話」から始めて「ラジオ」→「テレビ」→「コンピュータ」という順序で話を進める予定だったが、時間的にそういうやり方は無理だし、退屈であることがわかった。そこで、今日から、いきなり映画のなかの「コンピュータ」というテーマで話を進めることにする。

【メインディッシュ】
◆手始めに、ピーター・ホーウィット『監視 サベイランス』(AntiTrust/2001)をDVDで時間一杯見てもらう。主演のティム・ロビンスは、ハリウッドでは社会意識の強い俳優であし、この映画で彼が演じる役は、あきらかにマイクロソフトの「ビル・ゲイツ」意識的にまね、批判している。方向は、「知的所有権」の問題と「オープン・ソース・コード」の運動を支持する内容になっており、ハリウッド映画としては、社会批判性が強い。

2002-10-07[2]

【アペリティフ】
◆出席者が先週よりも少ないので、先週の授業のやり方がよくなかったかなと思ったが、あとで、そうではなく、「就職支援行事」があるためであることがわかった。大学はある時期から「3年制」になった。ほとんどの単位を3年までに取り、4年度は、「就職活動」と称して、大学に出てこないというのが「普通」になった。これが、いま、3年生にまで及んできた。この分では、大学はいずれ「2年制」になるのだろうか?
◆こういう傾向を作っているのは、明らかに、大学の方なのだが、悪いことに、これは、学生諸君が入りたいと願う活気ある企業の考え方に逆行している。以前は、企業は「大学でへたなことを勉強しないで来てくれたありがたい――こっちで再教育しやすいから」と考えていたが、いまは違う。むしろ、大学でユニークなことを身につけてきた者を取りたいと思っている。どこの大学も、いま、今後進む入学率の低下を予想し、大胆な改革の必要を痛感している。短大を廃止しながら、4年制が事実上「短大」になってしまう傾向が進んでいる東経大は、どうなるのだろう?

【スターター】
◆【試写状について】映画というメディアには、試写会が不可欠だが、試写会の日時を「マスコミ関係者」に知らせる「試写状」の形態は、実に多様である。そのいくつかの例を見せる。いずれもかなりの経費がかかっているが、こういうやり方は、今後も続けられるのだろうか?
◆最近、わたしのところに、『COPY』とだけ書かれたVHSビデオが届いた。送付先の名も住所もない。なかには、断片的な「気持ち悪さ」をねらった映像が入っていた。これは、明らかに『ザ・リング』のプロモーションなのである。→その映像を上映。

【メインディッシュ】
◆ジェームズ・L・ブルックス『ブロードキャスト・ニュース』(Broadcast News/1987)
◆電話のシーンがひんぱんにあることで有名な作品の一つである。このビデオから、電話が出てくるシーンをすべて抽出してみる。
◆この映画の主人公ジェーン(ホリー・ハンター)は、テレビ局のプロデューサーで、電話は仕事の必需品である。そして、仕事仲間のアーロン(アルバート・ブルックス)とは、仕事の話だけでなく、リラックスした会話を楽しんでいるように見える。しかし、彼女は、電話の後、電話機からモジュラージャックを抜き、「不要」な電話をシャットアウトする。
◆ジェーンは、実は、ストレートのコミュニケーションが嫌いなのである。有名な、スタジオでの編集シーン(わたしは、このシーンが好きだ)でよく現れているように、彼女は、面と向かうと非常にタフである。しかし、これは、一つの防御的な逆反応であって、他者と直接対峙するのが嫌いだし、怖いのである。これは、彼女に近づくトム(ウィリアム・ハート)とのシーンによく現れている。
●【注目点】電子メディアには、「遠ざける」作用と「近づける」作業とがある。メディアを単なる「延長ケーブル」とみなしてはならない。
◆電話は、単にコミュニケーションを「拒絶」するのではなく、といって単純に「受け入れる」のでもない新たなコミュニケーションの方式を生んだ。わたしは、それを「距離のコミュニケーション」(distance communication) と名づける。
◆電話が映画のなかで、単なる「伝達」の道具ではなく、心理的に「距離」を調整するメディアである例として、アラン・ルドルフ『チューズ・ミー』(Chose Me/1984)を見る。
◆ナンシー(ジュヌヴィエーブ・ビジョルド)は、コミュニティ・ラジオ局で「セラピー」的な番組を持っている。一人の女性(レズレイー・アン・ウォレン)が電話をかけてきて、セックスなどの超個人的な告白をする。電話(とラジオ)は、ここでは、他人から自分を隔離するシールドの機能をはたす。だから、彼女は、安心して超個人的な告白をする。

【デザート】
◆電話がひんぱんに出て来るので有名な作品にウディ・アレンが脚本・主演し、ハーバート・ロスが監督した『ボギー! 俺も男だ』(Play it again, Sam/1972)がある。この映画は、もてない男が往年のスター「ボギー」ことハンフリー・ボガードにあこがれ、ひねった形で『カサブランカ』(1942)のリックを演じるという喜劇。そのなかで、サム(アレン)が恋するようになるナンシー(ダイアン・キートン)の夫ディック(トニー・ロバーツ)が、ある種の「電話狂」として登場する。彼は、どこへ行っても、自分の居場所の電話を秘書や仕事の相手に伝えないではいられない。妻とのベッドのなかでも始終電話している。ところで、こうして傾向は、ケータイの普及によって、全世界に広まった。
◆アレンが茶化しているように、ディックのひんぱんな電話コミュニケーションは、必ずしもコミュニケーションの密度の高さを意味しない。サムとナンシーの関係が深まってくるにつれて、2人が電話をしあうシーンがたびたび出て来るようになる。2人の電話コミュニケーションの質・エモーションの度合いとディックの事務的な電話とが対照的。

2002-09-30[1]

【アペリティフ】
◆今日が後期の第1回である。後期になると、毎年、なぜか大抵出席者が少なくなる。この講義の出席者も、やや減った。しかし、始まってから入ってくる学生が、後ろの床に座る。前に少し空きがあるから前にどうぞとうながすが、来ない。様子を見て、帰るのかな?
◆後期は、テーマを「映画のなかのテクノロジー」に設定しようと思う。これは、映画制作の技術とは違う。よく、映画評論家などが、カットがどうの、キャメラがどうのと書くが、たいていはでたらめである。現場感覚を出すために「カメラ」ではなく「キャメラ」(実際に映画屋さんはそういう)というと言ったところで、素人の話はそれだけのことしかない。映画技術のさわりについては、色々本やビデオ/DVDが出ているし、デジタル技術については、月刊の『CG WORLD』などにも解説がある。
ここで問題にするのは、映画のなかに出てくるテクノロジー装置であり、とりわけメディア・テクノロジーに関わる装置である。それは、「メディア機器」とも言われる。「メディア」という言葉で表現することもある。具体的には、電話、ラジオ、テレビ、コンピュータなどであり、細かく見れば、ウィークマン、CDプレーヤー、MP-3プレーヤー、ゲーム・マシーンといったように、枚挙にいとまない。予定としては、電話、ラジオ、テレビ、コンピュータをとりあげようと思う。

【スターター】
◆思考のウォーミンウアップに、夏休み中に(8月5日から開始)話題になった「住基ネット」(住宅基本台帳ネットワークシステム)について、少し話す。
◆テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』(1985)
◆こうした管理システムは、個人を符号に置き換えるが、機械的に処理される符号は、この映画が描くように、とんでもないミスを犯す。では、個人のあらゆる情報を集積し、管理すればいいのか? それ以前に、人間は、情報なのか? DNA情報に人間を還元できるという神話。なお、この問題については、ネットマガジン『HOTWIRED JAPAN』連載に書いたので、参照してください。
共同通信の報道とデータ

【メインディッシュ】
◆映画のなかで電話、ラジオ、テレビ、コンピュータが取り上げられる場合、それらが現実(映画外の)世界で持っている機能や役割、印象とは必ずしも同じではない。むろん、現実生活のなかでも、これらの機器の機能は単一ではない。そのへんを見る必要がある。そのためには、映画のなかの機能だけでなく、現実生活のなかでの機能も合わせて「現象学」的に見る必要がある。あたりまえの「常識」的な見方ではだめなのだ。

●映画のなかの電話:

◆ジョージ・ロイ・ヒル『スティング』(1973)
◆電話機が固定されており、それを使う者は、その場まで移動する
◆電話は、telephone [tel=離れた+phone=音]と表現されるように、本来、「ここ」と「あちら」との距離を消去する装置として生まれた。そのため、電話は、すぐさま、距離を操作し、ごまかす装置としても使われるようになった。この映画のクライマックスは、電話とテレタイプを使った詐欺である。
◆F・ゲイリー・グレイ『交渉人』(1998)
◆「交渉人」とは、立てこもり犯を説得したりする警察のプロである。サミュエル・L・ジャクソン演じる辣腕の「交渉人」ダニーは、同僚が何者かに殺されたとき、あらぬ嫌疑をかけられ、逮捕される。同僚は、死警察内の汚職事件に巻き込まれていた。はめられたと感じた彼は、いきなり人質を取って内務捜査局に立てこもる。そして、彼が要求したのは、シカゴ市警にもう一人いる辣腕の「交渉人」クリス(ケビン・スペイシー)。映画には、電話を通じてのスリリングなやりとりがある。映画が心理操作の装置でもあることがわかるだろう。
◆ハワード・ホークス『暗黒街の顔役』(1932)
◆ブライアン・デ・パルマの『スカーフェイス』(1983)は、この映画のリメイク。ホークスらしく、電話もドラマの小道具として巧みに使っている。電話でカットをつないでいくオシャレな感覚もある。しかし、いまの映画とは異なり、依然、電話が、距離を示唆する道具として使われていることは否めない。いまは、電話で話しているから、相手が遠くにいるとはかぎらない。

◆ウディ・アレン『ラジオ・デイズ』(1987)
◆これから話すラジオの話も出てきてしまう(ラジオに接続された電話)が、電話は、当初、1本の回線に各端末がぶら下がっている「パーティ・ライン」であり、聴こうと思えば、他の使用者の話を聴くことができた。この映画には、そのユーモラスなシーンがある。
◆アメリカでは、1919年を境に、電話が交換手を介さない自動交換方式に移行する。
◆電話が普及するにつれて、電話で用件を伝え合うのではなく、単なるおしゃべりをするという風習が生まれる。新しいメディアは、あたらしい風俗、ライフスタイルを生む。
◆1919年、ウッドロウ・ウィルソン大統領のもとで、国家情報の機密保持のために、電話の管理が民間から国家に移行する。機密と電話。

【デザート】
◆参考文献:松田裕之『電話時代を拓いた女たち』(日本経済評論社、1998)