2002-07-08[10]

◆前期と後期とに1度づつやる予定のレポートを課す日。例によってふだんより5分の1ぐらい多い出席者。「試験」や「レポート」となるとどっと「お客」がおしよせる習性は何十年も変わらない。もっとも、わたしは、1989年の「スターリン騒動」以来、こういう機会を使って学生を楽しませるイヴェントをやってきたので、学生は、何かを期待して来るのかも知れない。だといいんだが、とにかく歴史にはうとい学生が多いのが現状。 それと、受講生が入り切れない教室を配当する大学事務の傾向もこの何十年変わらない。まあ、道路交通法を厳密に守ったら商店はやっていけないというタテマエとホンネ分離の国だから、しょうがないか。

◆課題は、まず、ジョエル・シューマッカー監督の『8mm』(Eight Millimeter/1998)、『フォーリング・ダウン』(Falling Down/1993)、マーティン・ランソホフ監督の『ギルティ』 (Guilty as Sin/1993)のなかで「悪役」が最後を遂げる3つのシーンを見せ、ハリウッド映画のある一つのパターンを紹介し、このことをふまえて、日本映画ないしはテレビ番組のなかの「悪役」のパターンについて書いてもらう。



2002-0[9]

◆先週問題にした「物語」と「ギャグ」との関係について、別の角度から考える。

●ウディ・アレン『泥棒野郎』(主人公が公園で老婆のハンドバッグを盗んで、開くと、そこからなかのmのがポンポン飛び出すという手品のシーンのようなシーン。ペット屋のドアーを開くと、そこからゴリラた飛び出して来る。
◆多くのギャグ・シーンの積み重ねから出来ているこの映画のなかで、主人公が銀行強盗をし、金庫を開くとなかに「ジプシーの家族」(*)が住んでいたという「ギャグ」シーンに注目したい。ギャグとは、一つのドアーが開かれ、その向こうに予想を越えた世界が展開するときに作動する。そこで、ここでは、映画のなかでのドアーの機能について少し考えてみよう。これは、現象学的考察(この講義のテーマは「ハリウッドの現象学」でしたね)の訓練にもなる。現象学的考察においては、ディテールにはっと気づくことが重要だ。最初にディテールへの直観あり。その直観を分析・分節していく。
*ちなみに「ジプシー」は差別語だとして、「ロマ」と呼ぶ傾向もある。ロマに焦点をあてて映画をとっている作家にトニー・ガリフがいる。
●いくつかのハリウッド映画におけるドアーの一般的効果の事例を見る。ギャグ効果でなくても、ドアーは映画の場面展開にとって不可欠の道具である。ある意味で映画のカットそのものがある種の「ドアー」だと言えるし、撮影機/映写機は「ドアー」の開閉装置でもある。
◆バリー・ソネンフェルド『MIB II メン・イン・ブラック2』(Men in Black II/2002)で「銃」を持ったトミー・リー・ジョーンズとウィル・スミスがドアーを開けて登場するシーン。

◆ピート・ドクター『モンスターズ・インク』(Monsters, Inc./2001)では、子供を夜な夜な脅し、悲鳴をエネルギー源にしているモンスター社会のエネルギー会社のモンスターたちは、子供たちの寝室のクローセットの「戸」から入ってくる。映画には、モンスター株式会社の内部にモンスターが出入りするドアーが無数に釣り下がっている非常にシュール(レアリスティック)なシーンがあり、必見。

◆アンディ/ラリー・ウォシャウスキー『MATRIX マトリックス』(1999)のドアーのシーンは、単にサスペンスを煽るためのただの「幕」にすぎないが、しかし、それが開かれることによって、新しい世界が展開する。

◆ブライアン・デ・パルマ『スネーク・アイズ』 (Snake Eyes/1998)の最後のシーンは、嵐が吹き荒れ、警察のパトカーが迫る「外部」と、秘密を握っているカーラ・グジーノを殺そうとするゲイリー・シニーズとそれを助けようとシニーズと闘うニコラス・ケイジとがいる「内部」とを仕切る「ドアー」がこのシーンのサスペンスの鍵を握る。ドアーが開かれるのか開かれないのか・・・。ドアーが開くと、この映画のドラマはほぼ終わるのである。

●ドアーが別世界/別次元を開くという点では、ルイス・ブニュエルの記念碑的なシュールレアリスム映画(脚本はサルバドール・ダリ)『アンダルシアの犬』(Un Chien Andalou/1929)のなかで、女性がドアーを開くと、その向こうに海が開けている(といって、その家は海浜の別荘ではない)シーンが有名。ここでは、意識と無意識との仕切り(閾=いき)のメタファーとしてドアーが使われている。

●しかし、ドアーのラディカルな使い方は、フランツ・カフカの小説において最も鋭い実例を見ることができる。カフカは、シュールレアリストたちからも敬意を表された作家で、シュルレアリスムのリーダーだったアンドレ・ブルトン(Andre Breton, 1896-1966)が編集した『黒いユーモア選集』(1940)(邦訳、上下国文社)(要するに「ブラック・ユーモア」選集)のなかにカフカの『変身』が入れられている。カフカが世界的に知られるようになるのは、1940年代後半からであることを考えると、彼らは早くからカフカのすごさを見抜いていたと言える。フェリックス・ガタリが、「カフカはわたしの(心の)親友だ」と言ったように、カフカは、現代を考える際に、依然として重要な作家である。ここでは、これ以上カフカに触れることは出来ないので、わたしの『カフカと情報化社会』(未来社)をほしい。

◆オーソン・ウェルズ『審判』(The Trial/1962)

◆デイヴィッド・ヒュー・ジョーンズ『トライアル 審判』(The Trial/1993)

●どちらも、カフカの小説『審判』(文庫本や「世界文学」全集などで読める)を元にしており、たとえば、主人公ヨーゼフ・Kが、「裁判所」から呼ばれて、指示通りにひと気のない家に行き、ドアーを開くと、そのなかに何百人もの人がいるシーンとか、会社で妙なうめき声がするのでクローセットのドアーを開いてみると、そこで不思議な「体罰」が実行されているシーンなど、ドアーのシーンの重要さはきっちりと押さえている。オーソン・ウェルズのは、カフカの原作をかなり単純化しているが、映像のパワーは強烈である(ただし、ビデオでは、テレシネの状態が悪く、その凄さは感じられない)。ジョーンズのは、映画としては凡庸である。ちなみに、カフカは、映画や演劇(「幕」はドアーである)から強い影響を受けており、その小説技法は、映画以上に映画的だ。(カフカと映画との関係については、ハンス・ツィシラー、瀬川裕司訳『カフカ、映画に行く』、みすず書房がすばらしいアプローチをしている)。だから、つねに映像の革新を試みたウエルズはカフカを選らんだのであり、その意気ごみがこの映画に十分出ている。他方、ジョーンズのように凡庸にカフカをなぞっても、その作品はそこそこに映画になるのである。



2002-07-24[8]

◆コンピュータの音声を入力する端子がコントロール卓についた。管財課は約束を守ってくれたわけだ。しかし、コンピュータを使って講義をする時期は過ぎてしまった。後期で使わせてもらおう。

●先週見た『バナナ』には、多くの「ギャグ」が出てきたが、「ギャグ」と「物語」はどうちがうのだろうか? 「ギャグ」を物語の1形態と見ることはできるか? 「ギャグ」は、「物語」の1要素か? 具体的に実例で考えてみよう。

◆ジョン・ランディス「モンドー・コンドー」(Mondo Condo)(『アメリカン・パロディ・シアター』[Amazon Women on the Moon/1987])。映像としてつまり台詞やだじゃれとしてではないナンセンス・ギャグ。全編、ジョー・ダンテやカール・ゴットリーブが監督し、ロザンナ・アーkルエットやミッシェル・ファイファー、はてはB・B・キングまで出演するごたまぜ映画。

◆クライブ・ドナー『何かいいことないか子猫ちゃん』 (What's New, Pussycat/1965)。ウディ・アレンは、まだこの時期は、クラブなどで「ギャグ」のきいた「お笑い」(スタンダップ・コメディ)を演っていた。この作品で彼は、初めて映画の脚本を書き、映画に出演した。したがって、この映画には、彼のギャグ・コメディアン(スタンダップ・コメディアン)としての才能・特質が出ている。

◆ウディ・アレン『カイロの紫のバラ』(The Purple Rose of Cairo/1985)。アレンは、カデミー監督・作品・主演女優賞を取った『アニー・ホール』(Anni Hall/1977)以後、ナンセン・ギャグの目立つ作品は作らなくなる。が、「ギャグ」を単なるお笑いとしてではなく、一つの次元から他の次元への飛躍的な転換機能と考えるならが、アレンの映画は、すべて「ギャグ」から成り立っている。この映画では、ミア・ファーロー演じる女主人公が映画を見ていると、スクリーンのなかからその映画の主演俳優が客席に出てきて、彼女と映画館のそとに逃げ出してします。これは、お笑いとしての「ギャグ」ではなく、ある種「哲学的」なユーモアを持ったシーンである。映像的身体と生身の身体とは? 日常的リアリティとヴァーチャル・リアリティとの関係・・・。考えれば、多くのことを示唆してくれる。

◆ウディ・アレンの「スタンダップ・コメディアン」としての活動は、いまではCD("Standup Comic: 1964-1968", RHINO RECORDS, 1999) で聴くことができるが、そのなかには、非常に哲学的なものがある。彼は、読書家であり、1940年代から1960年代前半に流行った「実存主義」(Existentialism)、「不条理」思想/文学/演劇、そして、そうした潮流の源流とも言えるフランツ・カフカ (Franz Kafka, 1883-1924) への長年の関心を隠さない。彼の短編集『これでおあいこ』(Getting Even/1966)[伊藤典夫・浅倉久志訳、CBSソニー出版]にも、カフカ的な短編がいくつも含まれている。

◆日本では、最初、アルベール・カミューの『シジフォスの神話』などから定着した「アプシュルド」「アプスルディテ」(英語ではアプサード absurd)を「不条理」と訳した。そのため、原語のなかにあった「ばかばかしさ」という意味が消え、「不可解」「理屈に合わない」→「不合理」という意味だけが強調されるようになった。カフカの小説のまさに「スタンダップ・コメディ」的なおかしさに関心が払われなくなったのも、「不条理」という語に責任がある。サミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』やウジェーヌ・イオネスコの戯曲『授業』『椅子』など「不条理演劇」の代表作を見れば、そこには哲学的な「ばかばかしさ」にあふれているのがわかるが、そうした点への関心が薄れてしまった。

◆ウディ・アレン『スリーパー』(Sleeper/1973)には、アレンのテクノロジー/官僚主義批判が鋭くあらわれているが、その表現は、「ギャグ」と切っても切れない関係にある。[一部分を紹介するつもりだったが、この日、時間いっぱいこの作品の前半部分を見せてしまった]。




2002-06-17[7]

◆「物語性」の一つのモデルを実体験してもらうためにウディ・アレンの『バナナ』(公開時にはこのタイトルだったが、ビデオで発売されたとき『ウディ・アレンのバナナ』になった。チャプリンの映画も同様に頭に監督の名がつく)(Bannas/1971/Woody Allen)を見せるつもりで、編集・録画にかかったが、久しぶりに見たせいか、あまりに面白く、無理をすれば授業時間内に見せられるので、今日は講義なしで、映画を1本見せることにした。わたしの知りあいが教えているアメリカやドイツの映画の授業は、全部が3時間ぐらいあり、映画を1本見て、それから講義なのだが、日本では、それがなかなかできない。教師や授業内容で授業時間を自由に変更できる柔軟さを持ったカリキュラムができないのは、ひとえに文部科学省の干渉と、それを気にする大学の弱腰のためである。

●『バナナ』は、アレンの初期の作品だが、近年身辺のスキャンダルでごたごたしたり、名コンビだったエディターのスーザン・E・モース(Susan E. Morse)がやめてから(彼女がエディットしたのは『セレブリティ』-1998-まで)のアレンは、さえない。『ギター弾きの恋』 (Sweet and Lowdown/1999) も『おいしい生活』(Small Time Crooks/2000/Woody Allen)も過去の二番煎じだった。その点で、『バナナ』は、映画製作時の政治・社会状況、アレンの時代意識、ギャグ作家/コメディアンとして出発したアレンの真骨頂、映画のスタイルへの批評家的意識が横溢している。
◆有名なスポーツアナウンサーのドン・ダンフィ(Don Dunphy)ハワード・コゼル(Howard Cosell) の皮肉な「暗殺」実況放送がこの映画のイントロ。メディア論的に、その後のテレビ(事実報道から仕掛け報道へ、さらには事件がテレビの後を追う)の方向を予見的に皮肉ったスタイルが笑わせるし、アレンの見識と批評性が強烈。

◆『泥棒野郎』でも使ったニュース報道的なナレーションのスタイルは、マスコミで知られた有名アナウンサーを使うことでここでも踏襲されているが、テレビニュースの場面では往年のテレビ・パーソナリティのロジャー・グリムスビー(Roger Grimsby) が登場する。コジャックの上司を演ったダン・フレイザー(Dan Frazer)が演じる神父(新教の「牧師」ではない!)が出演し、「新約聖書」という名のタバコを信者に薦めるTVコマーシャルのシーンも、カソリックと新教ともどもに茶化しながら、テレビおCMを揶揄している。

◆最初の方の地下鉄内のシーンで、無名時代のシルベスタ・スタローンが乗客に悪さをする2人組の一人として登場していて、笑わせる。

◆この映画の予見性は、冒頭の南米の小国サン・マルコス(架空)での大統領「暗殺」→クーデターが、やがてチリで起こったことである。1970年10月24日、チリでサルバドール・アジェンデが大統領に当選し、社会主義政権が成立した。これは、民主主義的な手続きで実現された社会主義革命として歴史的な大事件であった。この政権は、1973年9月11日にアウグスト・ピノチェトによる軍事革命によって倒され、アジェンデは「自殺」する。この事件についてはさまざな批判と抗議運動が起こされたが、コスタ・ガブラスの『ミッシング』(Missing/1982)は、そこで何が起こったかをヴィヴィッドに描いている。数千人の活動家の逮捕・暗殺にもかかわらず、軍事政権は、1988年、国民投票によって崩壊し、ピノチェットは国外に退去。1998年ロンドン警視庁は、ピノチェットを軍事政権時代の弾圧・殺人の容疑で逮捕。『バナナ』は、1971年という時点で、アジェンデ政権が軍事クーデターで倒されること、また、軍事政権もまたいずれは崩壊することをはっきりと予見している。

◆ニューヨークで仕事にも女性にも金にも恵まれない男(フィールディング・メリッシ Fielding Melishという名前は、明らかにユダヤ系)が、サン・マルコスの軍事クーデター反対と「革命」を支持している活動家の女性と知り会うが、彼女に捨てられ、(彼女に誘われてデモなどに参加はしたが、特に政治に関心があるわけではなかったが)[そういうことがあるとどこかへ行きたくなるでしょう]サン・マルコスへ行く。が、奇妙な(カフカ的な)偶然から、現地の革命運動グループの基地にまぎれ込み、運動のメンバーにされてしまう。

◆サン・マルコスの革命運動の指導者の風貌は、明らかに、キューバのカストロを模し、その参謀役もどこやらゲバラに似ている。そこで起こるウディ・アレンの面目躍如のギャグは抱腹絶倒まちがいなし。と同時に、アレンが、1971年の時点ではまだ「未来的」希望がもたれていた「革命運行」の行末を鋭く見据えていたことに驚かされる。

◆アレンらしく、安すぎるギャグや、『戦艦ポチョムキン』の有名な階段のシーン(軍隊の突進に倒された民衆のなかの母親が押していた乳母車が階段を落ちていく)のもじりなど、わかりすぎるパロディも少なくない。最後の、再開したかつての恋人とのベットインのシーンは、ジョン・レノンとヨーコ・オノのベットインをパロディ化したものだろうが、あまり成功してはいない。とはいえ、これを1971年の時点で見たら、そのパロディ度はかなり強烈だったろう。わたしがこの映画を始めて見たのは、197年代後半にニューヨークで開かれたウディ・アレン・フェスティヴァルにおいてだったが、こんな面白い映画はないと思った。


●この映画を久しぶりに見て思ったのは、この映画を「物語性」のモデルとみなすのは、大ざっぱすぎるということだった。というは、この映画を構成しているのは、ギャグであって、ギャグは必ずしも物語には属さないからである。物語(性)を大きなジャンルとして考えるとしても、ギャグは、物語とは異なる表現機能を持っている。
◆ギャグとは、まず、物語のような、持続よりも、断片をいきなり投げつけるような中断を特徴としている。gagは、もともと「窒息させる」「窒息させるもの」を意味し、やがて、現在のギャグ/アドリブの意味になった。基本的に、観客をハッとさせるのがギャグであり、ハッとさせ、次の瞬間爆笑にさそうのである。その中断/インタラプションの間合いがギャグの秘訣だが、中断/間合いをとることは、また、あらゆる表現における(物語性に劣らぬ)基本要素でもある。

◆ギャグを「間」やブレヒト的な「異化効果」との関係で考えなおしてみると面白い。

●ウディ・アレンの映画の日本語の資料として、推薦できるのは、樋口泰人・都筑はじめ『ウディ・アレン E/Mブックス3』(カルチュア・パブリシャーズ)である。



2002-06-10[6]

◆コンピュータの音声入力端子を敷設してくれないので、今回は使用をあきらめる。が、教師たる者、コンピュータがなければ講義ができないようでは仕方がない。わたしは、使える環境があることになっているからそれを最大限に使おうとしているのであって、コンピュータに振りまわされる気はない。

●「物語性」といっても、具体的に何だという疑問がわきてくるだろうから、具体的な物語を紹介することからはじめてみよう。すなわち「絵本」である。さいわい、この教室にはOHC (書画カメラ)があるので、それでページの絵を大スクリーンで見せながら、「物語」することができる。用意したのは、マーク・アラン・スタマティ (Mark Alan Stamaty)の 『ドーナッツなんかいらないよ 』(Who needs Donuts?/1973/The Dial Press)。
◆1970年代前半のニューヨークの街を生き生きと描いたモノクロの細密画的なタッチの絵。「ドーナッツを集める」のが好きというサム坊やが、ニュージャージーの街から三輪車に乗ってマンハッタンにでかけていく。そこで知り会った「ドーナッツ集め」のおじさんと毎日ドーナッツ集め三味にふける。が、おじさんがプリツェル・アニーというおばさんと突然恋に陥り、「ドナッツより愛の方が大事だよ」と言って、どこかへ行ってしまう。サムは、仕方なく、一人でドーナッツを集め、倉庫に保存する。ところがある日、その倉庫の隣のコーヒー工場に、近くのペット屋から猛牛が逃げ込み、コーヒータンクを角で突いてしまう。コーヒーが溢れ出し、その地下にこっそり住んでいたホームレスのお婆さんがコーヒーに溺れそうになる。サムは、そのとき、決断する。彼女を助けよう。そして、大切に保存していたドーナッツをコーヒーが溢れた地下に大量に投げこみ、コーヒーを吸収させて、お婆さんを助ける。「どうお返ししたらいいんだい」と感謝するお婆さんに、サムは言う。「ドーナッツなんかいらないよ。ぼくは、愛がわかたから」と。そして、彼は、また、友達たちのいるニュージャージーの小さな町に三輪車で帰っていく。

◆なぜドーナッツを集めるのか、なぜペット屋に牛がいるのか等々、日常をシュールに飛び越えているのが、このの「物語」の特徴だ。ストーリーに劣らず、スタマティの絵は、細部に注目すると象の鼻をした鳥がいたり、マンハッタンをリンカーンが犬を連れて歩いていたり、実ににシュールである。昔、スタマティがわたしに語ったところによると、彼は、そうした画風をゲオルグ・グロッスなどから学んだというが、彼自身の天才的な想像力の産物である。彼は、そのころ(70年代)、よくマンハッタンで街をながめ、スケッチをしていた。わたしは、彼と、『GRAFICATION』という雑誌で、彼がマンハッタンの現在進行中の風物を描き、わたしがそれを見て文章を書くというコラボレーションを1年あまり続けたことがある。彼は、いま、『Washington Post』や『Wall Street Journal』などの政治マンガの著名な作家になっている。

●『ドーナッツなんかいらないよ』の物語性:
(1)スタマティの絵は、そのどこを見るかで全体の意味が無限に変わってくるが、ストーリーも、多様な解釈が可能だし、原文を無視して「勝手」に何かをつけ加えることもできる自由さがある。

(2)「物語」のなかには、聞く者を追いつめ、息苦しくさせるような(それが「パワフル」で「感動的」とみなされることもある)スタイルもあるが、スタマティの「物語」には、そうした「魔術性」や「拘束力」はなく、自由さにあふれている。

(3)スタマティは、ギリシャ系の父とユダヤ系の母の一人息子であり、両親のルーツを意識している。彼のストーリーには、ギリシャ神話的な「物語」の伝統と、ユダヤ(というより第2次世界大戦以前、つまりヒトラーのユダヤ人撲滅作戦以前には東ヨーロッパに多く住んでいたイーディッシュYiddish語をしゃべるユダヤ人)の「ホラ話」の伝統が流れ込んでいる。また、彼の絵には、表現主義の「夢」(の「物語」)の描写、カフカやシャガールに通じるある種シュールレアリスム的な「飛躍」が見られる。

(4)その点で、『ドーナッツなんかいらないよ』は、通常の意味での「物語」を越えている要素がある。

(5)「物語」を聞くことには、完結した時間を反復するという安心感が支配する。また、同じ「話」を何度もくりかえし聞くことが「楽しみ」であるというところもある。『ドーナッツなんかいらないよ』は、そういう面もあるが、むしろ、読むたび、聞くたびに毎回意味が変わるという螺旋状の時間を経験させる。

●『ドーナッツなんかいらないよ』の「物語」であって「物語」でない、「物語」を逸脱している要素を記憶にどとめ、ふたたび、映画における「物語性」にもどる。

●狭い意味で「物語」的でない映画の実例から「物語」について考えてみよう。

(1)「ドキュメンタリー」(「現実」を映す「鏡」だと思われているかぎりで)も「物語」になる。
◆『ハート・オブ・ダークネス』(Hearts of Darkness/1991/Eleanor Coppola+Fax Bahr) →夫フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』の撮影現場を撮った映像は「現実」の「鏡」であるとしても、編集され、ナレーションを付けられた本編は、ストーリー・テリング以外のなにものでもない。

(2)フィクションだからといって、「物語」であるとはかぎらない。「ドキュドラマ」の可能性。
◆『戒厳令』(Etat de Siege/1973/Costa-Gavras)→1960年代末から少なくとも10年間、政治映画といえばコンスタンチン・コスタ-ガブラスが筆頭に挙げられた。彼の映画を見ると、「実写」でないにもかかわらず、「物語」的な解説なしに即物的なショットを提示していくスタイルのなかから現在進行中の政治事件や状況が画面からひしひしと伝わってきて、単なる「物語」とは思えないのであった。これは、「ドキュメンタリー」とは逆の例であり、フィクションだからといって、すべてが「物語」になるとはかぎらないという例である。「物語」が、なんらかの形で日常を越えさせるとすれば、コスタ-ガブラスの映画は、逆に、「現実」に連れもどす。

(3)ジャン-リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)の映画→通常の「物語性」を越えた物語性への示唆。
◆中国女(La Chinoise/1967)
◆ベトナムから遠く離れて(Loin du Viet Nam/1967)
◆ゴダールのリア王(King Lear/1987)
◆ゴダールのビデオ大作『映画史』(Histoire(s) du cinema)の示唆すること
◆フランス語のhistoireは「物語」と「歴史」とを同時に意味する。が、歴史は、これまで書かれたものの歴史であり、書誌としての歴史が歴史を決定してきた。それは、単数の歴史(単一に統合され、編纂された歴史)であった。ゴダールは、これに大して複数の歴史を対置する。それは、書かれたものにとどまらない、さまざまな複数のメディアによって表現された複数の歴史hitoiresである。『映画史』は、そうした複数の歴史を映像メディアを使って「物語」る。そのストーリ・テリングは、書かれた物語のそれに内属している「魔術的」「誘惑的」「幻惑的」「韜晦的」な要素(これらは、聞き見る者の意識を忘却と忘我=快感へ誘う)を越え、メディアが、記憶の再生と継承をうながす。



2002-06-03[5]

◆まいった、まいった。また、装置が不備。コンピュータの音が出ない。おまけに、ビデオ→←コンピュータの切り替えをすると、映像が全く出なくなってしまう。一体、学務/管財課は何を考えているのか? ちゃんと授業をやろうとする教師と「コミュニケーション学科」にふさわしい授業を受けたいと願っている学生のことを全く考えていないじゃないか! 来週は、プロジェクターも持ち込もう。

◆ハリウッド映画の基本特徴の一つである「物語性」(ナラティヴィティ narathivity)について事例を紹介。
◆『イヴの総て』(All About Eve/1950)
1950年度アカデミー賞6部門受賞した本作は、先週の『American Cinema』でも取り上げられたが、典型的な、わかりやすい「物語性」つまり説明調のナレーションのパターを見ることができる。
◆『泥棒野郎』(Take the Money and Run/1969)
ウディ・アレンは物語性に執着しながら映画を作ってきた映画作家である。本作は、彼の初期の傑作。
◆『アニー・ホール』 (Annie Hall/1977)
◆『ニューヨーク・ストーリー』(New York Stories/1989)
◆『現金に体を張れ』(The Killing/1956)
スタンリー・キューブリックは、従来の説明調のソフトなタッチの物語性を、ニュース報道のハード・ボイルド・タッチに変えた。
◆『2001年宇宙の旅』(2001:a space odyssey/1968)
キューブリックの本作は、「スペース・オデッセイ」と呼ばれるが、ここでは単純な意味での説明的物語はないが、全体がやはり「物語」であり、「オデッセイ」とは物語の一形式でもある。
◆『タクシードライバー』(Taxi Driver/1976)
マーティン・スコセッシは、ここで、日記というスタイルを用いているが、日記もまた「ナレーション」の一つである。
◆『ピースメーカー』(The Peacemaker/1997)
ハリウッド映画は、基本的に物語性をもっているが、それを廃し、アクションや物をストレートに突きつけようとするかに見える「サスペンス」を選ぶものもあり。今回はこの1本のある特定個所にとどめるが、いずれ、この問題については、詳しく論じる機会があるだろう。



2002-05-27[4]

◆教室の状況:あいかわらず満席だが、前方のいい席で居眠りしている集団(!?)。用意したパーティ用のクラッカーで起こす。コンピュータの音が出なかった→何と!配線がしていないのであった→早急の対策を学務/管財課に依頼。

●ハリウッド・スタイルの研究→『American Cinema』(USL-40304)
◆マーティン・スコセッシ、シドニー・ポラック、ジョセフ・マンキウィッツらが、ハリウッド映画の「パターン」について語る。「ハリウッド映画はストーリー・テリング(物語)である」。「監督は、前もって脚本やスタジオで決められたことを撮る」。「家に帰る」というテーマ。それは、『E.T.』のような映画でも同様である。
◆映画と「物語性」については、いずれもっと立ち入った考察を加えなければならない。これについては、多くの研究がある。「物語学/ナラトロジー narratology」という学問もある。近々上映の『ダスト』の監督ミルチョ・マンチェフスキーは、「私は映画はアートだとは思わない。映画はストーリー・テリングだ」と主張する。「私たちは物語に囚われている。それらを聞き語り、作り上げ、その中を生きる。しかし、私たちは直線的な時間表現やストーリー・テリングに慣れているが、それは狭すぎる見解だと思う」。たしかにさまざまな「物語」が可能であり、ワルター・ベンヤミンも、「物語」ということを重視した(『ベンヤミン・コレクション2』筑摩学芸文庫参照)。


2002-05-20[3]

◆教室の状況:満席はいいが、前方のいい席で居眠りしている学生あり。対策の必要を感じる。

●[補足]未来のプレゼン方式→『ミッション・トゥー・マーズ』における宇宙人のプレゼンのシーンを見せる。
東経大の設備では無理だが、いまの技術水準では、このぐらいのプレゼンが可能だ。わたしが東経大にいるあいだにこういう授業を受けさせることは可能だろうか?

●ハリウッド映画の現象学・予備的考察[2]
・メディア論
・現象学
◆ハリウッド
◆ハリウッド映画を知るためのデータベース
The Internet Movie Database (IMDb)href="http://us.imdb.org/
劇場公開映画リンク集 http://www.isp.ne.jp/~nakajima/movielink/link.html
粉川哲夫/「シネマノート」http://cinemanote.jp/
・あとは、気づいた単語や題名を、GoogleYahoo、それからわたしのサイトの検索欄などに入れてみること。

●ハリウッド映画を見る視点

◆まず、「月並みな常識」、「一見瑣末な日常」、「平均値」から入っていく現象学の方法で「ハリウッド映画」にアプローチしてみる→通常「映画」は次のように分類される:
◆ジャンル(genre)
・テーマ(theme)
・モチーフ(motif)/意図/動機
◆アーキタイプ(archetype)/パターン
・観客(audience)の視点

◆ジャンル

アクション/冒険、ミュージカル、ミステリー、戦争映画、犯罪ドラマ、警察もの、サスペンス、SF/ファンタジー、ウエスタン(西部劇)、エスニック、コメディ、ラブ・ストーリー、ファミリー・ドラマ、青春ドラマ、ホラー、社会派ドラマ
◆ジャンルの重層性→誕生期のアメリカ映画の多様性→『アメリカ映画の誕生』(JV-1084)

◆アーキタイプ/パターンの分析→『大列車強盗』(1903)
◆この映画でアメリカ映画/ハリウッド映画の「型」が決まったとすら言える象徴的な作品。「犯罪」が映画のなかで大きな位置を占める。移動がリアリティを生む。後ろから殴るとすぐに気絶するといったパターン化された身ぶりの発見と創出。詳細に見れば、まだまだ多くの要素を発見できる。



2002-05-13[2]

◆教室の状況:ビデオは映せるようになったが、コンピュータが接続不可→学務課が用意したVGAケーブルの故障だった。

●ハリウッド映画の現象学・予備的考察[1]
◆映画を分析し、論じる方法には、ベラ・バラージュの『視覚的人間』(1924年)[翻訳複数あり]以来(とさしあたり言っておく)、ロシア・フォルマリズム系の映画論、チェコのヤン・ムカジョフスキーに代表されるチェコ構造主義系のもの、これらを集約した形で1960年代以後にフランス展開する記号論/記号学系のもの、さらには、ジル・ドゥルーズが開いた新しい映画論の方向(『シネマ1――イマージュ運動』/『シネマ2――イマージュ時間』邦訳未完)などがある。が、ここでは、これらの基底にある広義の「現象学」に注目したい。

・メディア論
◆現象学
・ハリウッド
◆現象学についての最少知識
・エドムント・フッサール(Edmund Husserl)の標語:「事象そのものへ」(Zur Sache selpst!)
*ヤフーで検索→フッサール
・モーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty)の標語:「身体は世界と同じ生地で織られている」
*ヤフーで検索→メルロ=ポンティ
「メルロ=ポンティ著作目録」(PDF)ほか
◆現象学の基礎的方法→表層・形式・傾向からの出発



2002-04-15[1]

◆教室の状況:プロジェクタ故障で映像みせられない→学務/管財課に交渉→プロジェクタを交換してもらう約束。

●【シラバス】


授業表題
映画の現象学


授業内容
主として最近のハリウッド映画をとりあげ,映画のなかに流れ込んでいる社会的要素,政治,文化,経済,テクノロジーを分析・解釈する。同時に,ハリウッド映画が流通することによってそれがあたえる影響・効果・機能をさまざまな角度から問題にする。
単なる映画論,映画批評,映像分析ではなく,映画という「現象」をメディアやコミュニケーションの総合的な場とみなし,既成の枠組みをのりこえたアプローチを試みたい。
論じるテーマとしては,当面,以下のようなものが考えられる。
◆メディア・テクノロジーとの関係――テレビ以前と以後,CG以前と以後
◆ハリウッド映画が好む諸テーマと時代――戦争・愛・家庭・暴力
◆他のメディアとの関係――舞台・都市・テレビ・ラジオ・活字・インターネット
◆政治との関係――映画による情報操作と映画への規制と検閲,映像そのものの持つ政治性
◆経済との関係――情報経済の時代に映画産業は経済システムのいかなる部分に位置するか
◆既存の(精神分析学的,記号学的,ポスト構造主義的等々の)映画論の批判的検討
◆ハリウッド映画とグローバリゼーション――マクロとミクロの観点から


参考文献
・粉川哲夫 『シネマ・ポリティカ』(作品社)(デジタル版 http://utopos.jp/books/cinemapolitica/i
・粉川哲夫『いま見たばかり・シネマノート』(http://cinemanote.jp/)
・ジャン=リュック・ゴダール『映画史』(日本語字幕版――DVD VIDEO KKDS-4)


評価方法
「平常点」(レポート提出)